マオリ

コハンガ・レオの教師をやってみませんか

コハンガ・レオとは、1980年代に始まり、すぐに爆発的に増えたマオリ語とマオリ文化の幼児教育施設である。 コハンガ・レオとは、マオリ語で「コトバの巣」を意味するのだが、このコハンガ・レオの先生の仕事がどのようなものなのか、どのような適性と能力が…

文化衝突後に引き続く「同化」政策を乗り越えて、自立・多様性・共生の時代をめざす

西洋文明との接触は、オランダ、そしてフランスとイギリスとの競争など、ヨーロッパ諸国間の矛盾はありながらも、結局は英米のもつ圧倒的経済力と軍事力、そしてキリスト教という神学上のイデオロギーと、司法・行政・立法上の社会制度の導入、そしてそれら…

学校でマオリ語を喋ると昔は鞭で叩かれたものよ

レガッタを見ながら、私は、ヘミのお母さんにマオリ語の歴史について、少しだけ聴いてみた。 家庭では、マオリ語で育てられたが、学校では、英語だったと彼女は言った。マオリ語を話すと、鞭で叩かれたものだと続けた。 教師は意地悪で、マオリの子どもたち…

ヘミと一緒に今日もワカ・アマ・レガッタに出かける

そのヘミが金曜日にワカ・アマ・レガッタに一緒に行こうと誘ってくれたので、今日も彼と一緒にレガッタ見物に行くことにした。 お母さんと、甥っ子や姪っ子の子どもたちが乗っている車で、私のホームステイ宅までヘミが迎えに来てくれた。 ヘミの甥っ子や姪…

孫を連れたこの教授は、まさに見識の高い人格者だった

そして彼が、彼の孫と一緒に、私をワカ・アマ・レガッタに二日前に連れて行ってくれたのだ。 彼の孫がたまたまドラゴンボールZのバックパックを背負っていたので、私はドラゴンボールZを話題にした。彼の孫は、昼過ぎの3時から放映されているドラゴンボールZ…

ワイカト大学の教授に私が読むべき研究者の名前を教えてもらった

初級マオリ語を教えてくれた講師のヘミに会いにワイカト大学(The University of Waikato)に行ったのは、彼にいろいろと教えてもらおうと思ってのことだ。 マオリ語が公用語化されたのが1987年という遅い時期であったけれど、それ以前は、学校教育での英語の…

ワカ・アマ・レガッタを二回見物する

今テレビでは、メルボルンで開催されているテニス大会で盛り上がっていて、アレックスもジュディも、このオーストラリアオープンに夢中だったが、ハミルトンの隣町であるケンブリッジから少し行ったカラピロ湖(Lake Karapiro)では、「ワカ・アマ・レガッタ」…

マオリ語公用語化も、ワイタンギ条約をめぐる審判所での申し立てから始まった

基本的人権の中で重要な位置をしめるものは、なんと言っても生存権だろう。生存権が保障されなければ、他の権利の保障は無意味だ。 もちろん労働する権利、労働権も重要だが、労働権を保障するためには、なんといっても教育権が保障されなくてはならない。教…

ワイタンギ条約をめぐる異議申し立ては、審判所でなされる

クローディア=オレンジ(Claudia Orange)氏は、ワイタンギ条約に関わる歴史研究者で、オークランド大学で歴史を教えた経験をもっている。彼女は、マオリ問題が日常的話題となる地域・家庭環境に育ち、ワイタンギ審判所や裁判公聴会に関わる議論に一貫して関…

ニュージーランドの二つの公用語

大学図書館からインターネットのグーグル*1で、「ニュージーランドの公用語」というキーワードで検索をしたら、たまたま「ニュージーランドの公用語」(New Zealand's Official Languages)というタイトルの旅行業者のホームページがトップに出てきた。以下掲…

キングカントリーとは何か

以下の記述は、ロンリープラネットガイドブックに負っている*1。 キングカントリー(The King Country)とは、1850年代から1860年代初頭にかけて取り組まれたマオリ王運動から生まれた地域の呼称である。1863年から1864年にかけて起こったワイカト戦争後、タフ…

マオリにとっての土地とワイカト土地戦争のもつ意味

一方のマオリにとって、ワイカト戦争とはどういう意味をもつものなのか。Judith Bassett, Keith Sinclair, Marcia StensonのThe Story of New Zealandには、次のような記述がある。 「マオリはこの土地没収をけっして忘れることはない。それは、ワイタンギ条…

ワイカト戦争を振り返ってみる

今回、フィールドワークを多少おこない、各地の歴史的記述がされている看板を読んで、そしていくつかの書籍を読んでみて感じたことは、まずワイカト土地戦争が明確に侵略(invasion)と明記されていることである*1。 フィールドワークの際にも、さまざまなキー…

ワイカト戦争の最後がタウランガで起こる

マイケル=キングの本によれば、ワイカト土地戦争の最後の戦闘は、ベイオブプレンティのタウランガ(Tauranga)近くで生じたという*1。 1864年4月28日、キャメロンは、1700人の軍隊と17門の大砲で、230人のマオリによって防衛されていたガテ村(Gate Pa)を襲っ…

オラカウの闘い

ワイカトへの最終段階での大きな軍事作戦は、1864年の3月31日から4月2日にかけておこなわれたオラカウの闘いであった。 レウィ=マニアポト(Rewi Maniapoto)の例のコトバ、最後の最後まで戦うというコトバが残された戦場である。負傷したマオリも、最後は、…

非戦闘地域・ランギアオヒアへの日曜日の襲撃

聖ポールのアングリカン教会のあるランギアオヒアが襲撃されたのは、日曜日のことだった。 これは私事になるが、20数年前に雑誌タイムで、イギリスで日曜日に商売をする店が出現したという記事を眼にしたことがあるが、キリスト教徒にとっての日曜日は、それ…

こうして、ワイカトへの侵略が1863年7月12日に始まった

これ以降のことは、マオリ土地戦争のフィールドワークとして、あちこちに書いたので重複は避けるが、マイケル=キングの本をもとにして、もう一度簡単におさらいしておこう。 キャメロン将軍率いる軍が、マンガタフィリ川を越え、最初の戦闘は、7月17日、コ…

タラナキ戦争からワイカト戦争へ

ロンリープラネットガイドブックから、再び、マイケル=キングの本に戻る。 マイケル=キングの本によれば、タラナキ戦争の結末については、次のようにある。 タラナキ戦争にそなえて、ゴア=ブラウン総督(Governor Gore Browne)は、オーストラリアから3000…

旅行ガイドブックで、タラナキ戦争を学ぶ

タラナキ戦争については旅行ガイドブックのロンリープラネットに詳しく、これから書く段落の部分だけをロンリープラネットから補足する。 そもそもタラナキ地域は古くからマオリが住んでいた地域である。 ヨーロッパからの植民は1841年から始まったのだが、…

マオリ王運動

このマオリ王運動として、1856年に、テ フェロフェロ(Te Wherowheero)が初代マオリ王として選ばれる。彼はポタタウとして(Potatau)、1858年にナルワヒアで正式に就任する。多くのヨーロッパ系移民からすれば、これは不忠に他ならない。マオリ王運動の影の立…

マイケル=キングの「ニュージーランドの歴史」を読んで、ワイカト土地戦争を復習する

イギリス国家(the British Crown)に対抗するために、つまり、いかにマオリが集結するかという戦略を練るために、1850年代に北島に住むマオリが連続して集まりを開き、これがマオリ王運動へと発展する。 あまりにも有名なこのマオリ王運動の事情については、…

ダニーデンとクライストチャーチ

イギリスの法律が急激に影響力を持ち始めたのは、南島である。 南島の大部分の土地は、ンガイ タフ(Ngai Tahu)が所有していたのだが、1830年代のンガティ トア(Ngati Toa)の侵略でかなりの打撃を受けていた。 そして、ンガイ タフは、1844年から1857年にかけ…

「図解オックスフォードニュージーランドの歴史」から学ぶ−その2−

キース=シンクレア(Keith Sinclair)編の「図解オックスフォードニュージーランドの歴史」(The Oxford Illustrated History of New Zealand)を参考にして、昨日の続きを書く*1。 土地を売ったマオリの動機は、パケハ(Pākehā)を隣人にしたかったという理由が…

「図解オックスフォードニュージーランドの歴史」から学ぶ−その1−

キース=シンクレア(Keith Sinclair)編の「図解オックスフォードニュージーランドの歴史」(The Oxford Illustrated History of New Zealand)という本を、アレックスの長女マーガレットの旦那のジェフから借りているのだが、これはなかなかいい本だ。 キース…

キヒキヒ

Site 22-Kihikihi 1864年2月24日、ランギアオヒア陥落の二日後、イギリス軍はキヒキヒ(Kihikihi)を占拠し、略奪をはかり、マオリの指導者であるレウィ=マニアポトの家を焼き払った。 マオリは家を捨て、馬や家畜を、プニウ(Puniu)川の南に避難させていると…

オラカウの闘い

Site 21-Orakau キャメロン将軍の野望は、1864年2月、ランギアオヒアを陥落させたことで満足した。 しかし、マオリの指導者・レウィ=マニアポト(Rewi Maniapoto)は、水や食料も十分にない中、300人以下の人数で、オラカウ(Orakau)に村(pa)*1を建て始めた。 …

ハイリニ

Site 20-Hairini ランギアオヒアの闘いの翌日の2月22日、パテランギ(Paterangi)から、マオリが大挙押し寄せ、ランギアオヒアを奪還した。 ランギアオヒアの1キロ西のハイリニ(Hairini)尾根にマオリが塹壕を掘っているとの情報を入手したキャメロンは、その防…

ランギアオヒアの聖ポールの教会を訪れる

次に訪ねるべきは、ランギアオヒアである。 テ アワムツのインフォメーションセンターで、ランギアオヒアへの行きかたを訪ねる。 ランギアオヒアには、テ アワムツからケンブリッジ方面に4.5キロほど向かい、マンディーノ道路(Mandeno Rd)で右折し、どん突き…

テ アワムツ博物館

Site 18-Te Awamutu Museum テ アワムツ博物館を訪れるのは、これで三度目だが、ワイカト土地戦争関連の資料では現在ニュージーランドで一番そろっている博物館である。オンラインのサイトは以下の通り。 http://www.tamuseum.org.nz/teawamutu.htm この博物…

聖ジョンのアングリカン教会

Site 17-St John’s Anglican Church, Te Awamutu テ アワムツは、「キリスト教伝道協会」(Church Mission Society)の「オタファオ伝道所」(Otawhao mission station)があったところで、この伝道所はワイカト土地戦争が始まるずっと前、1841年に設立されてい…