「梅原猛さん死去 「京都の宝物のような人」」

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 少し前の記事だが、以下、朝日新聞デジタル版(2019年1月16日09時28分)から。


 

日本の文化や歴史を独自の視点で研究し、大胆な仮説を展開した哲学者の梅原猛さんが12日、93歳で亡くなった。京都大で学び、京都市立芸術大学長や国際日本文化研究センター初代所長を務めるなど京都の学術や文化の中心的な存在だった。京都のまちづくりや伝統芸能の発展にも力を尽くした。

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実践的哲学者

  梅原さんは哲学者にとどまらず、社会問題や芸能分野でも存在感を放った。

 「哲学者というとともすれば部屋にこもっている印象があるが、梅原さんはアクティブで実践的な哲学者だった」

 「憲法9条京都の会」代表世話人を共に務めた立命館大国際平和ミュージアム名誉館長の安斎育郎さん(78)はこう話した。

 「自らの戦争体験をもとに、単に『平和は大事』と原則論をいうだけでなく、原発事故など具体的な日本社会の問題にも発言をされた。知識人や文化人を束ねて日本社会や地球が将来どうあるべきかを発言することが今こそ求められているが、そうしたことをされた象徴的な存在だった」と惜しむ。

 この会で一緒だった臨済宗相国寺派管長の有馬頼底さん(85)は「『憲法9条は日本の宝』というのが梅原さんの持論で、私もともに守ろうと活動を続けてきた。相国寺ゆかりの絵師・伊藤若冲についてもいろいろご助言をいただいた」と話す。

スーパー狂言

 スーパー歌舞伎ヤマトタケル」(1986年初演)を手がけた梅原さんは、長崎県諫早湾干拓事業を取り上げた「ムツゴロウ」、科学技術の危うさを描いた「クローン人間ナマシマ」、戦争をテーマにイラク問題などを反映させた「王様と恐竜」の「スーパー狂言」3本を書き上げ、京都を拠点に活動する茂山千五郎家によって2000年から03年にかけて初演された。

 「クローン人間ナマシマ」などに出演した五世茂山千作さん(73)は、「父(四世千作さん)とおじ(二世茂山千之丞さん)が心安くさせてもらった。スーパー狂言は時代を切り取った作品で、狂言師ではなかなか思いつかないもの。お客さんも喜んでくれ、笑いもたくさん起きた」と言う。「温和でいつもニコニコして優しい先生で、舞台稽古の時も『好きなようにやったらいい』と言ってくれたし、哲学のことを質問すると分かりやすく教えてくれた。能や狂言もよく知っておられた。京都にとってとても大事な方をなくし、寂しい気持ちだ」

小中でも授業

 長く京都で暮らした梅原さんは、地元に根差した活動も続け、京都の小学校や中学校でも熱心に授業をした。

 1996年には京都市立桂坂小学校(京都市西京区)で「学問の楽しさ」について6年生に授業。芸術家の岡本太郎さんらの物まねをしながら「人生は、最後はやはり創造ですよ」と説いた。

 京都市南区洛南高校付属中学校では非常勤講師を務め、3年生に2001年に宗教、02年に道徳の授業をした。梅原さんは授業を前に、「心の教育の大切さを唱えてきたので、授業が実現できてうれしい」と話していた。

 怨霊などの研究で知られる梅原さんは74~86年に通算2回、京都市立芸術大の学長に就き、「芸術学概論」などの講義も続けた。教え子らとの作品展も開き、自筆の書を出展した。教え子の一人で銅版画家の山本容子さん(66)は、梅原さんの90歳を祝う会で「黒板の前でチョークの粉だらけになり聖徳太子や(柿本)人麻呂について講義する先生は、怨霊が乗り移っていたようだった」と振り返った。

事業実現に力

 梅原さんは1981年、「府文化懇談会」の中心となって京都文化の創造発展に向けた提言をとりまとめた。西脇隆俊知事は「提言で提案された数々の事業の実現に御尽力いただき、平安建都1200年記念事業の実施、国際日本文化研究センターの開設、関西文化学術研究都市の建設、京都府京都文化博物館の開館、京都府文化賞の創設など、京都の発展に大きな役割を果たした」とコメントした。

 門川大作京都市長も「現在の文化芸術を基軸としたまちづくり、国づくりの先駆者として梅原先生の偉大さを実感している。文化庁の京都への全面的移転でもご貢献いただいた」と感謝し、「最近では、京都市立芸術大学の京都駅東部、崇仁地域への移転についてとても喜んでいただき、いつもの柔和な表情で励ましていただいたことが私の脳裏に焼き付いている」とコメントした。

 京都市左京区熊野神社の境内に「八ッ橋発祥之地」と刻まれた碑がある。字は梅原さんの手によるものだ。神社近くの「本家八ッ橋西尾」会長の西尾陽子さん(81)が依頼した。

 梅原さんの教え子とのつながりで親しくなり、揮毫をお願いした。「有名な方なので、ぜひ書いてほしいと伝えたら、快く引き受けてくれた」という。その元になった書の現物は「一生の宝物」で、掛け軸にして大事にしまってある。「普段の表情はにこやかで優しかった。哲学者でもあり文化人でもあり、京都の宝物のような人でした」