ジョン・サマヴィル著/芝田進午訳「平和のための革命」を購入した

「平和のための革命」(1974)

 ジョン・サマヴィル著/芝田進午訳「平和のための革命」を購入した。

 初版年度は1974年。俺のもっている版は1975年の第二刷のもの。

 いくつかの「序文」のなかに、次のようにある。

 これまでのところ、このような熱核兵器による人類絶滅は防止されてきた。その理由は、こうした最高指導者たちがそのような戦争をおこす意志がなかったとか、用意がなかったからではない。彼らはそのうような用意をしていたし、すすんでそうする意志さえもっていた。だが、この事実にもかかわらず、それは防止されてきた。このことがこれまであきらかにされた真実にほかならない。今日まで、そのような戦争を防止するうえで、二つの要因が主要な役割を演じてきた。一つは、(中略)。一つには、平和運動が国内で政治的圧力をくわえて、これまでの政府が権力を維持するのをおびやかしたことである。

 一般に「平和運動」といわれるものが、現在の条件のもとで実際に消失するとすれば、人類は遠からず滅亡するであろう。(後略)

 「第6章 新しい意味論」では、「何千年もの間」の「戦争」という概念が変わってしまったことを指摘して、著者は次のようにいう。

ところが、一九四五年に、それまで戦争とよばれてきたものが突如として客観的にみて別のものになってしまった。いまのべたすべての事実、評価、行動反応はそれ以前の戦争にむすびついていたのであるが、それが実際、いまや新しい兵器でたたかわれる別のものになってしまった。(後略)

(p.195)

 もちろん、それが問題のすべてを解決するわけではないが、新しいことをあらわすのに新しい言葉をつくれば、あきらかにきわめて有効であろう。わたくしは、そのような言葉として「生物みな殺し」(バイオサイド)という言葉を提案したい。われわれは、すでに「殺人」(ホミサイド)「自殺」(スイサイド)「父殺し」(パトリサイド)「母殺し」(マトリサイド)「国王殺し」(レジサイド)「民族みな殺し」(ジェノサイド)、(最近では)「生態系破壊」(エコサイド)というような用語をよく知っている。これらはある特定の個人、集団、ある特定の地域の生物全体を殺す行為をあらわす言葉である。われわれが今必要としている言葉は、すべての生物、植物、動物および人間を殺す行為をあらわすものである。というのは、熱核兵器が地球的な規模でもたらしうることはそういう事態だからである。(後略)」

 以上のように述べて、ほとんど問題にされなかったW.W.ロストウ氏の New York Times 紙 (1964年6月7日)の論文を著者は問題視して、「しかし、もし「生物みな殺し」という言葉が通用していたら、あきらかに、まじめな問題提起や討論がしやすくなったであろう」と強調する。すなわち、W.W.ロストウ氏の文章を「より正確な言葉に翻訳すれば」、「われわれはソ連の攻撃的兵器をこの半球から排除する決意をかためていたし、この目的のために、生物みな殺しをはじめることもふくめて、必要なことはなんでもする用意をしていた」と言い換えることができると。

 「新しい意味論」は重要な問題提起だと考える。