外国にいるとあまり手紙をもらえないものだ

San Francisco

 外国にいる日本人は故郷の日本によく手紙を書く。私も例外ではない。時間も自由だから、平均以上に手紙を書いていると言えるだろう。
 けれども、外国からは手紙をよく書くけれども、それを受け取った人は返事をあまり書いてもらえない傾向がある。何故か。
 日本にいる人は、(1)外国に行った友人・知人・家族から手紙を受け取り、安心し、それで完結する (2)外国に行った人の生活がイメージできないので、どんな暮らしをしているのかわからない、その結果、日本からの手紙を期待していることが理解できない (3)外国での目新しいと思われる事柄より、日本の暮らしから特に報告すべき事柄がないように思えてしまう (4)日本人は、暇がない、忙しい 
 上記のような原因が考えられるだろう。
 私も、海外滞在していた知人の一人から受け取ったとき、また別の先輩から受け取ったとき、「ああ、外国に行かれているのだな」というメッセージだけを受けとめ、完結し、どんな暮らしをされているのか、イメージできず、ABCで書かれた住所も全く見当がつかず、返事を差し出したとしても、その住所にはすでにいないのではなどと考え、結局出さない。実際、いまサンフランシスコに滞在している私にハガキをくれる人たちは、私の生活がなんとなく見えている人が多い。
 相手の実態がわからない、イメージできないとは、それだけ大変なことなのだ。
 「外国語学習はfrustrationの連続」と本にある。行ってみて初めて日本語の通用しない世界があるということを理解するのだが、行ってみなければ想像でしかない、海の向こうで通用しているであろう言葉なんて、かなり無茶しないとマスターできない。必要なものは、動機・やる気・根気である。
 アメリカ英語は、アメリカ合州国の言葉だから、アメリカ人、アメリカ合州国の地理・歴史、特に国民性に根づいている。抽象的でなく、具体的である。その辺の生臭さも、実際に嗅いでみないとわからない。
 「馬場16文キック、炸裂」と言われても、馬場というプロレスラーがどんなレスラーなのかわからないと、ピンとこない。16文の「文(もん)」とは何か。度量衡の一つで、サイズを表すということもわからなければ理解は難しいし、貨幣など日本史の背景的知識も必要だ。「炸裂」の語感は、戦争モノに通じていないと、深い理解はできないだろうというように、言葉というものは、生臭いものなのだ。
 アメリカ人の人名・地名は、どんなイメージを含意として持っているのか、わからないと、理解はやはり遠ざかってしまう。
 名前だって、「五郎」といえば、5人目の子どもかなと推測してしまう語感、ピンとくる力を母語話者は持っている。同民族ならば当然理解できることが、外国人にとっては物凄い壁になる。「知的枠組み」、その膨大な網の目が、実は民族性の文化性、その実体なのかもしれない。
 日本人のことを渾名でBananaということをどこかで読んだことがある。外は黄色で、中は白ということなんだそうだが、日本人は「民族」という言葉に鈍感である。日本での日常生活の中では、意識の外になってしまうだろう。
 今つけっ放しにしているテレビで、”OK, party is over.”(「いいね、もうどんちゃん騒ぎはおしまいだよ」)と言っていたが、このpartyという言葉も、アメリカ人の交流の仕方、人間の集まり、実際のどんちゃん騒ぎ的なパーティを知らなければ、理解できないだろう。
 「ハンカチ(handkerchief)」は「鼻をかむもの」と、こちらの「国語辞典」(いわゆる英英辞典)に定義されているが*1、日本人の文化とは歴史的概念がそもそも違うし、その上、どこでもトイレではペーパータオルが完備されている*2ことが多いということを、肌で感じないと理解できないだろう。それが外国語であり外国での生活たる所以だが、第一段階としては、違うということを理解すべきなのだろう。
 そして、違いがあり、分かり合えないものだから、communicationが必要になる。分かり合えないものだから、話し合う必要があるということを理解した上で、communication(give and take)できるかどうかが、学校が始まる前にしての課題である。

*1:たとえばCobuildに、"A handkerchief is a small square piece of fabric which you use for blowing your nose"とある。

*2:1980年代はそうではなかったが、後年日本でもトイレにペーパータオルが完備されるようになる。