田中克彦・H.ハールマン「現代ヨーロッパの言語」を斜め読みした

「現代ヨーロッパの言語」(1985)

 言語学者田中克彦氏とH.ハールマン氏との共著。

 ケルト語系のゲーリク語(ゲーリック語*1の箇所を斜め読みした。

54 スコットランド・ゲーリク語 Gaidhlig

 スコットランドのゲーリク語も、マンクス島のゲーリク語やアイルランド語とともに、ケルト語に属する。13世紀に共通ゲーリク語から分離した東部共通ゲーリク語から、15・16世紀頃に形成された。

 1961年の調査によると、その本拠は、スコットランドのハイランド地方の5万6000人の母語の話し手と、外ヘブリディーズ諸島2万5000人、これら両者8万1000人の大部分が英語とのバイリンガルであって、ゲーリク語のみを話す者は974人であった。

 それに至るまでの話し手の数の激減ぶりは次の数字から明らかである。すなわち、1891年:25万4000人、1911年:20万2000人、1931年:13万6000人、1951年:9万5000人。

 都市別に見ると、グラスゴウとその周辺部に1万5600人、エディンバラに2000人の話し手があり、これらを総計すると、約10万人のゲーリク語の話し手があったが、それは、スコットランドの総人口520万人の0.5%にあたる。

 16世紀になって、それまで口頭で伝えられていた物語詩が文字で記録された。1878年より、ゲーリク語地域では小学校の選択科目に加えられたが授業用語とはなっていない。

(p.174)

56 アイルランド語 Gaeilge

 アイルランド共和国の、英語と並ぶ公用語であって、約4万人の母語話者と、それを第二言語として話す者を併せると約79万人にのぼる。これはアイルランドの総人口348万人中の22%にあたる。アイルランド共和国で、英語のみを話す者の数は78%である。全世紀から、話し手の数は、絶えず減少している。すなわち、1851年:152万4000人、1861年:107万7000人、1891年:66万4000人、1926年:54万4000人。ただし、1946年には58万9000人と微増し、1950年代からは回復のきざしを見せている。

 アイルランド語は、スコットランド・ゲーリク語、キムリア語、マンクス語、ブルトン語などと同様、ケルト語であるが、その保持にとって有利であったのは、ラテン語、英語文化の中心地から離れていたせいである。方言文化が激しく、音韻体系は複雑であって、音素の数は60を下らない(ちなみに日本語は24)。格は呼格を含む5格がある。また対(つい)になるものを一つとして扱うので、一つの足、一つの目は、それぞれ「半分」と表現される(日本語でいえば「片(かた)」にあたる)

 早くも6世紀から書きことばの伝統があり、9世紀頃には長篇の物語詩が生まれ、「アイルランド文学の黄金時代」と呼ばれる。なかでもオシアンの物語詩は最も早熟な世界の文学として、その後の文芸活動に影響を与えた。1600年頃には数種の地域的な文章語を生んだ。

 しかし17世紀以降、アイルランド語の受けた言語弾圧は英語圏では類を見ないほどのものであって、たとえば母語で書く詩人は投獄された。19世紀より、アイルランド語維持のための諸団体が生まれて、英語に抗する純化運動が進められ、今日の正書法の基本は1894年に設立された Gaelic Leage が普及させた。1949年、英連邦から離脱して完全な独立国となったが、英語は依然優越している。

(p.175-p.176)

Sotland, Republic of Ireland, Isle of Man

67 マンクス・ゲーリク語 gaelck

(前略)いまわれわれの眼の前で絶滅してしまったマン島のゲーリク語(中略)…。マン島は、ブリテン島とアイルランド島との間に浮かぶ、572平方キロの、淡路島より少し小さめの島である。(後略)

 マンクス語は、アイルランド語スコットランド・ゲーリク語と同様にケルト系の言語である。5世紀以来、キリスト教の伝道を通じてラテン語の語彙を、9世紀からは古代ノルド語の語彙をとり入れたが、現代ではもちろん英語の強い影響にさらされた。

 今世紀はじめの1901年にはまだ4419人の話し手があったのに、第一次世界大戦後の1921年の総計では896人に激減した。1950年には10人、1967年2人、という報告は1969年に母語の話し手はただ1人というところで終る。最小の言語共同体のモデルは少くとも一人の話し手と一人の聞き手の存在を条件とするが、1969年にはその前提すらも失われた。(後略)

 マンクス語は決して文字なし言語ではなかった。1625-30年の間に、英語から祈禱書が翻訳されて、その後1896年にはじめて印刷された。方言差異がないので、標準化に面倒はなかった。1899年に設立された Manx Society はマンクス語の書物をいくつか印刷した。1968年瀕死のマンクス語を前に、「マンクス言語協会」が発足し、マンクス語を第二言語として話す者を養成することによって、マンクス語を蘇生する運動がすすめられている。

 本書に添えた付表1は、最新の報告にもとづいているが、そこに〔   〕に入れて示した200人の話し手は、マンクス語蘇生運動志願者の努力の結果得られた、新しい話し手の数を示しているものと思われる。

(p.186-p.187)

*1:日本語表記では、ゲーリク語よりもゲーリック語のほうが一般的なようだが、高名な言語学者である田中克彦氏が、ゲーリック語ではなくゲーリク語という表記を採用されているのには何か理由があるのかもしれない。いずれにせよ、日本語カタカナ表記は揺れがあり、むずかしい。