英語道では、ペラペラ、美しくしゃべること(これは英語術)を目的とはしない。もしペラペラしゃべることができれば、日本的な心情を多分に犠牲にしているからだ。かっこよく英語が話せることが英語術のゴールなら、海外で生まれ育つべきである。確実にバイリンギャルとしてテレビに華々しく登場できる。もしそれが望みなら、読者のほとんどは手遅れである。
英語道でいう「美しい英語」とは、歯を食いしばってしゃべる ー 時には悔し涙を流しながら ー 傷だらけの英語である。そこには、異文化間の衝突(コンフリクト)がある。滑らかにしゃべれるはずがない。それでいいのだ。(p.119)
また、神と悪魔のところで。
日本人には、悪魔は、神(善)に対する悪だという、単純な発想しか存在しない。悪魔は、神と対等に闘えるほど強力な存在だという認識が欠如しているのだ。(p.123)
英語は「侵略的な言語(キラー・ランゲージ)」であるとしたうえでの以下の叙述は、そのあとの結論は受け入れがたいが、途中までは納得できるものだ。
英語は、ギリシャ語、ラテン語を奪い、キリスト教が生んだ概念や言語をもってヨーロッパを北上し、同じく侵略的なアングロ・サクソン語までを奪い、ゲルマン語をも吸収し、ケルト民族の言語(ゲーリック語)や、スカンジナビアのバイキング語までも奪い、世界に散在している六、七千語を圧倒するチャンピオンとなっている。なんという murderous で bloody な language (血に飢えた言語)であろうか。それだけに打たれ強い。(P.136)
本書には、断片的だが、オーストラリアや中国、アメリカについても、こうした刺激的な叙述が見受けられる。