ふたたび「言語活動」について=「リズム」「スピード」「パワー」=

 昨日の日記で書いた内容の続きだが、マオリ語のクラス仲間では、おそらく私が一番マオリ語の語彙が少ないだろう。けれども時間をかけるならば、文法的にたどったり、辞書を丹念に引いたりして、たとえ学ぶ速度は遅くても、なんとかやれる自信はある。だけれども、コトバというのは、分析したり、文法を勉強するためのものではない。文法学者なら別だが、実際に使われる「言語活動」というのは、「リズム」「スピード」「パワー」がどうしても求められてくる。
 “Hello(こんにちは)”とか、”Good evening, sir.(今晩は)”と言われて、その場では何もわからず、家に帰って、辞書と文法書を調べて、「ああ、そういう意味だったのか」と、次の日に答えても、その努力は認めるが、会話(speech)にはならない。「言語活動」は、その場で、返さないと意味がないのだ。テニスや卓球のように、どんなに下手でも、その場で、パンパンと「やりとり」をしないといけないのである。そのためには、リズムとスピードについていけるだけのパワーが必要である。マオリ語を始めた私の最大の問題は、文法力の欠如もさることながら、語彙力が全くないので、まさにパワー不足なのである。これじゃ、飯も食わずに、長距離を走れと言われているようなものだ。
 「言語活動」においては、何度も指摘しているように、「リズム」「スピード」「パワー」これらが御三家と私は思っているのだが、「言語活動」において、いかに「リズム」が大切か。まず、ひとつ例を紹介してみよう。
イギリス語にMcDonaldという語彙がある。人名であるし、ファーストフード(早食い餌)・ジャンクフードの代名詞でもある。イギリス語でこれを発音すると、3音節の感じで発音し、マク<ダ>ナルドと、「ダ」を強く発音しないといけない。ところが、日本語で、「マクドナルド」と平坦に発音すると、6音節になる。日本語は、子音に必ずといってよいほど母音をつけるから、言ってみれば、とても「丁寧に」発音しているのだ。ためしに、いま私がホームステイしているジュディに「マクドナルド」と日本語として発音してみたら、それではイギリス語のMcDonaldとは全くわからないとジュディは言った。それほど、「リズム」が違うのだ。
イギリス語では、子音に母音が必ず付くということはないので、母音を削り落として発音するとよい。たとえば、attractionなら、「アトラクション」ではなく、「アツゥ<ラク>シュン」だ。全体として、子音の強い発音になるし、例えば、日本語の「シカゴ」「たまご」でも、真ん中の音節が強く読まれる癖があるから、「シ<カァ>―ゴォ」であるし、「(ツ)タ<マァ>ーゴゥ」である。こうした「高」「低」の「うねり」が、イギリス語では重要になる。日本語のようにフラットに発音すると通じないことが多いのだ。
 こうした「リズム」も大事だが、さらに重要なのが、「スピード」である。アナウンサーが音読するスピードというのがあって、かなり遅いアナウンサーで一分間に160語から180語くらいは話すだろう。「間」の長さによっても違ってくるから一概に言えないが、大体そんなものだと思う。
 これを「間」で引き伸ばすのではなく、音読的に発話的に引き伸ばして、どんどん遅く読んでみるとしよう。そうすると、スローにスピードを落としてプレイした録音テープのようなもので、だんだんと音声的に判読できなくなってくる。そのぎりぎりに落としてなんとか判読できるというか、我慢できるスピードが、大体120語くらいではないかと思う。つまり、私が言いたいことは、人間が判断しうる「言語活動」の「スピード」というものは、範囲というものがあるのである。たしかに現代は、スピードアップしている嫌な時代なので、早口の人が多くなっているだろう。それでも、その速さには限界というものがある。昔のオープンリールのテープを早回しすると、おかしなスピーチになるが、どんどん早くすれば、あるところで認識できなくなって当然だ。
 ところで、母語話者は、その限界ある「音読」のスピードを超えて、「黙読」ができるのである。天才的に斜め読みができるというような速読家もいるから、上限はわからないが、少し早いくらいなら一分間に250語くらいだろう。それでも、これでは黙読としてはきわめて遅い範囲である。もっと早い速読家で、一分間に300語とか400語くらい読める人はざらにいるだろう。それが、母語話者というものだ。これらの数字は少しいい加減だが、私の言わんとするところは理解していただけるものと思う。
 つまり、遅いスピードならば判読不可能になる限界があるという理由から、また、速いスピードなら早口にだって限界があるという理由から、人間の「音読」のスピードというものは、おのずと範囲が限定されているということなのである。その「音読」の上限を越えるのが、母語話者の「黙読」であり、「速読」であるのだ。
 それなら、外国人の場合はどうか。まず、「音読」のスピードで、そのまま「理解」するということは初級者にはまず無理である。(これを私は「理解のともなう音読」と称している) ゆっくりと自分で音読しながら、そのままの語順で理解をしていく。このスピードが、一分間に160語くらいだろう。初級者には、一分間に160語など、とても読めない。長期海外経験者は別にして、一分間に100語読める日本の高校生は、それほどいないだろうというのが私の推測である。
 この「理解のともなう音読」はどれくらいむずかしいのか。私の経験では、日本人にとってこれはとても困難なハードルだ。イギリス語と日本語の場合、語順も語彙も違いすぎるから、なおさらである。語順が同じであったり、語彙が近かったりすると、おそらくもっと早く読めるようになるだろう。おそらく、イメージがつかみやすい分、困難は、より少ないと思える。
 イギリス語のテレビ番組や映画などを日本人が見たり聞いたりする場合、たいていの日本人が理解できずに置いてけぼりにされるのはこのためだ。リズムやスピードについていけるだけのパワーがないからだ。もっとも、これが外国人たるゆえんでもあるのだけれど。
 発話されたことを紙に書いて、ゆっくりと辞書を引いて、英語教師の説明を聞けば、日本の高校生も理解できるだろう。しかし、それは「言語」的アプローチというものなのである。「言語活動」的アプローチならば、そのままの「リズム」と「スピード」についていけるだけの「パワー」を身につけておく必要があるのである。
 「言語活動」的アプローチと私が呼んでいるアプローチでは、なんといっても、「スピード」が大事である。スピードを意識して、スピードを上げていけば、言語活動的になってくるのである。例えば、電子メール。この電子メールの「やりとり」は、結構はやい。
 たとえば、私がメールを書く。もう返事が来ている。それを読んで、また書く。もう返事が来ている。それを読んで書く。こういう「やりとり」はスピードが大切だ。まさに、テニスや卓球である。これをもっと早くしたのが、インターネット上のチャットという奴だろう。つまり、読み書きだって、スピードを上げれば、「言語活動」的アプローチになるのである。
 今日のマオリ語の授業は、パンパンと、次から次へ新しい知識が紹介されたが、パワー不足の私はまるでついていけない。教室の椅子に座っているのがやっとであった。
 パワー不足を補うべく、語彙増強の筋力トレーニングに励まないといけない。応用言語学の授業、そして、CALL(Computer Assisted Language Learning)も、すでにオンラインの授業が始まっている*1。段々と忙しくなってきたけれど、やるっきゃないね。

*1:CALLはコンピュータを活用して、外国語学習に役立てるというもの。