ランギリリの戦い

 彼の書いた「ランギリリの戦い」から紹介しよう。これは教会の墓地の掲示板に貼ってあったものと同じ資料だ。


 1850年代にヨーロッパからの移民が大量にやって来て、1860年代初頭には自分たちにも相応の土地が与えられるべきと植民地政府に圧力を加えていた。一方、マオリは、自分達の土地がどんどん譲渡されていくことを恐れて、マオリの王様を決めた。それによって部族の統一と土地売買を抑制し、止めさせようと望んだのだ。
 ワイカトの各部族は強力になっていった。彼らはオークランドに食料を供給し、すでに経済的な一大勢力となっていた。タフィアオ王(King Tawhiao)は、フヌアス(the Hunuas)の南の境界線に、そしてマンガタフィリ渓流(The Mangatawhiri Stream)とワイカト川を北の境界線として、マオリの土地を確定した。もしイギリス兵士がこの境界線を越えたら、それは宣戦布告を意味すると警告したのだった。
 オークランドからこの境界線のところまで、時の政府は軍事道路を建設していた。これがマオリを激怒させ、離れ小島のようにあちこちに点在していた移民とイギリスの部隊を攻撃し報復することとなった。
 キャメロン将軍(General Cameron)は、女王の要塞(Queen’s Redoubt)と呼ばれる大きな砦をポケノに基地として設置した。彼は充分な数の軍人と物資を得ると、マンガタフィリ(the Mangatawhiri)を越えて、マーサー(Mercer)とファンガマリノ(the Whangmarino)の間にあるシダに覆われた丘の連なるコヘロア(the Koreroa)で、マオリと交戦した。マオリはメレメレ(Meremere)まで引き下がり、そこがマオリの最初の防衛ラインとなった。
 メレメレで、レウィ=マニアポト(Rewi Maniapoto)と彼の兵士たちがワイカト連合に合流した。マオリは、あちこちに点在していた移民たちとイギリス軍を脅かし攻撃することに成功し、多くのものに土地を放棄させた。
 11月の暖かな天候とパイオニア(Pioneer)という名の砲艦の到来で、マオリがメレメレを放棄するまでキャメロンは攻撃した。マオリはランギリリ(Rangiriri)まで撤退し、そこが、マオリの再度の防衛線となった。
 ランギリリは戦略上好ましい条件に位置にしていて、さらに最も巧妙に建設されていた。見かけよりもずっと頑丈だった。1863年11月20日、キャメロンは約1500名の軍隊、大砲、そして5隻の砲艦をしたがえて、ランギリリを攻撃した。彼は部隊を二手に分け、強い約900名を砦の北から、そして砦の南は、さらに500名を砲艦から上陸させた。それはものすごい戦闘だった。砦の中央のところでイギリス兵士たちはおびただしい攻撃を繰り返したが、根気強くまた恐れを全く知らないマオリに反撃に合った。夜となり、兵士たちは砦の近くに塹壕を掘った。
 雨が土砂降りとなり、それがマオリの火薬を湿らせた。戦士たちと一緒に多くのチーフたちは、応援部隊とともに戻ってくることを約束して離れた。砦に残留した戦士たちは、交渉のために、夜明けに白旗を上げた。そばにいた兵士たちはそれを降伏と受け取り、砦に転がり落ちるようにして握手を交わしマオリの勇敢さを称えた。自分たちは交渉を望んでいるのだとマオリは彼らを追い返そうとしたが、時すでに遅かった。将軍がやって来て、マオリに降伏するように言った。平和はありえないとマオリは拒否したが、「火薬をくれ」(Homai te Pourer)*1とだけつけ加えた。マオリは囚われの身となった。
 殺されたすべての兵士と36人のマオリは教会の墓地に埋められ、草の生い茂った小さな塚にある共同墓地にマオリが、そして全ての名前が記されている記念碑とともに墓に兵士たちが眠っている。高官の遺体だけは別にされオークランドに運ばれ、グラフトンガリー(Grafton Gully)に埋められた。

*1:「火薬をくれ」のマオリ語の記述は、私の持っている辞書によれば、「ホーマイ テ パウラ」(Hōmai te paura)だと思うが、ジョンの原文には、Homai te Pourerとあるので、そのままとした。