たしかに「チャット」が外国語学習に役に立つことは間違いない

 休み中だというのに、CALLの課題は、相変わらず毎週ある。昨日のケンブリッジ大学とワイカト大学(The University of Waikato)のエイトの試合の合間に今週の課題を終わらせた。
 今週のテーマは、同時期のCMC(Computer-mediated Communication)という奴で、いわゆる「電子会議」やインターネット上でおこなわれる「チャット」。こういうものが、外国語教育にとって画期的であるという論文を2つ読まされたのだが、私も「チャット」や「電子会議」が外国語教育にとって画期的な道具であることは認めるけれども、いわゆる「会話」と「文章作成」の間をつなぐものとして、この「チャット」や「電子会議」を位置づけるという論者の立場には私は批判的だ。その理由は、そもそも、「チャット」や「電子会議」と、「文章作成」とは違うものであり、比較自体にあまり意味がないと思うからだ。
 ただし、外国語教育にとって、この「チャット」や「電子会議」が役に立つということについては、体験上、全く異論がない。
 それで、その理由なのだが、外国語を喋るというのは、他人からどんなに流暢に話していると見えても、その本人からすると、いわゆるストレスなるものが常についてまわる。いわゆる「会話」は待ったなし。つまり、時間との勝負だ。テニスや卓球のように、パンパンパンと、「やりとり」をしないとシラケてしまう。ああ言えばよかったと思ってももう遅い。会話は先に行っているというわけだ。みんなが冗談で共時的に笑っているときに、「ところで、何が面白いの」なんて言えるわけがない。これは私の持論だが、「会話」には、「リズム」「スピード」、そしてそれについていけるだけの「パワー」が必要だ。このパワーは、文法よりも、おそらく「語彙力」や「常識理解」の方が重要だ。つまり、彼らの話題の流れに、ついていけるかどうかが大切なのだ。だから、「会話」としての発話は、完全な文でなくてもいっこうに構わない。文として不完全でも、自分が理解していることとその合図としての合いの手、そして、ときどき気が利いたことを入れて会話に参加していけばいい。
 こうした「会話」と違って、しっかり考えをつめる、考えを整理するためには、書く作業がどうしても必要だ。母語だってそうなのだ。いわんや外国語なら、なおさらのことだ。書いて考える、ということである。
 電子メールを私が好きな理由のひとつは、時間をかけて考え抜いて書けるからである。イギリス語の母語話者と私が無理してイギリス語でやりとりをする場合は、電子メールの方がやりやすいのは、そうした理由からのことだ。電子メールなら、やりとりはスムーズにもなる。どんなに私が時間をかけて書いたとしても、それは相手のストレスにならないけれど、「会話」なら、そうはいかない。コトバを探したり、コトバが出てこなければ、相手は、その時間つき合わされて、待っていないといけない。
 前よりは会話もできるようになったし、電話も怖くなくなったけれど、それでも私にとって母語と比べればイギリス語が不自由な道具であることに変わりはない。
 たしかに、電子メールや電子会議のおかげで、イギリス語に慣れてきたということはある。だから、「チャット」が実際の「会話」と「文章作成」とのギャップを埋めるというのは、一見そんな感じがするのだが、やはり「会話」と「文章作成」とは、そもそも別物だし、「チャット」や「電子会議」も、それとは違った新しいメディアとして捉える必要があるように思う。そして、繰り返しになるが、この新しいメディアが外国語学習にとって画期的であることに間違いはない。
 ただし、この新しいメディアに参加するためには、キーボード操作をはじめとして、コンピューターリタラシー(読み書き能力)が必要であることを、人は忘れがちだ。
 このことも私の意見としてCALLの課題に書いておいた。