才能がないなんて言ってる場合じゃないや

 今回は徹夜まではしなかったけれど、土日と結構な時間を使って応用言語学の課題を書いたのだけれど、なかなかまとまらなくて、とても困った。「君たちのレベルは、文章を書くのではなくて、恥をかくんですよ」と、その昔随分とお世話になり、今でもお世話になっている大学時代の恩師からよく言われたものだが、相変わらず、俺は恥をかき続けているようだ。
 ところで奥田民生の30歳のときの作品で「30」というアルバムがある(1995年)。このアルバムの中の「厳しいので有る」という唄がとくに私は好きなのだが、まさに学び考えるというのは厳しいのである。
 この歌詞の冒頭に、「シビア」という借用語(borrowing)が使われているが、イギリス語からの借用語はこの歌詞の中ではたったの一語だけ。
 漢字で書かないといけないような語彙も、「今日」「時間」「明日」「才能」「若者」「歴史」「天才」くらいしかない。この中でどれが歴史的に長い漢語なのか、よくわからないけれど、あとは柔らかい和語である。

 この「厳しいので有る」はなかなかの名曲だと私は思っているのだが、話は少し変わって、これは前にも書いたのだけれど、日本語は動詞後置性の言語なので、動詞については最後まで聞かないとわからない言語だ。イギリス語の場合、「主語+述語」というSV感覚は強固で、「主語+述語」まで聞けばわかる。逆に、目的語は最後まで聞かないとわからない。
 日本語では、例えば、次の文はどうだろうか。

    • 私は
    • 明日
    • 渋谷に       ---------行くつもりだ。
    • 彼女と一緒に
    • 映画館に

 上の文章中で、いばっているボス的存在は、「行くつもりだ」という動詞である。文頭にある残りの「私は」も、「明日」も、「渋谷に」も、「彼女と一緒に」も、「映画館に」も全部、「行くつもりだ」にかかっている。いわば修飾関係にあるといえる。
 それで、前にも紹介したけれど、日本語の場合、例の「主語」という概念はあまり役に立たない。文脈によっては、この「私は」がよく省略されるということもあるけれど、むしろ、「行くつもりだ」という動詞との関係性でいうと、「私は」も「明日」も、残りの全ても、動詞に対して平等の関係にあると思えるからだ。これらは、語順的に全く自由であり、日本語においては、なによりもこの動詞との関係性が重要だ。
 日本語においては「主語」という概念はあまり役に立たないと書いたけれど、「は」が「主格」をあらわす助詞であるということは、ある。だけれども、この場合、「は」は「主題」も表わすことができて、日本語の場合、むしろこの「主題」をあらわせるところに優れた特徴があり、この「主題」の「は」を使いこなすことができるかどうかが、日本語の使い手としてのひとつの試金石であるはずだ。
 ところで、動詞後置性である日本語では動詞が全体をしきっているものだから、日本語は、最後に意味をひっくり返すことが得意だ。いわゆる落語でいう「落ち」という奴である。
 だからこそ、奥田民生の「厳しいので有る」という歌詞の中の「才能がないや」「なんてこと、言ってる場合じゃないや」という表現は、日本語の理にかなった面白い表現となる。

         時間がない
         明日が怖い
         何も出ない
         こりゃやばい


         終わりだわ
         才能がないや
         なんてこと
         言ってる場合じゃないや


                         (「厳しいので有る」奥田民生


 ユニコーン解散後、ギターのコード進行などの曲づくりに凝っていた時期があると奥田本人が言っていたし、また奥田は昔っから曲を作ってから歌詞を考えることが少なくないと言っていたことがあるから、「厳しいので有る」は、おそらく創作活動の中で、奥田自身が感じた感慨であろう。
 自分はもっとできるはずという自負もあるのだけれど、創作というものはそんなに簡単にはできない。ものをつくるということには、なにしろ葛藤がつきものである。
 俺の作文課題などは、新しいものを作るという段階の話ではないけれど、一から何かつくるということでは同じである。
 ものづくりは、簡単にできない。つまり、「厳しいので有る」。