暴力がさらなる暴力を生む(コールマン=マッカーシー)

 「暴力がさらなる暴力を生む」("Violence Breeds More Violence")という題名で、コールマン=マッカーシー(Colman McCarthy)氏*1によって書かれたロサンゼルスタイムズの記事を最初に私が読んだのは、たしか、あの9.11の数日後だったように思う。
 今回、日本人青年が不幸な結末に至った殺害事件、その悲報に際して、急いで訳してみた。訳に誤りがあれば、それは全て私の責任である。が、主旨の理解としては、基本的なところで間違えていないと思う。何か誤りがあれば、ご教示願いたい。
 私の拙い訳ではなく、できれば彼の原文を参照していただきたい。コールマン=マッカーシー氏の原文は、次のURLを参照して欲しい。
http://www.commondreams.org/views01/0917-02.htm
http://articles.latimes.com/2001/sep/17/local/me-46643


     暴力がさらなる暴力を生む  コールマン=マッカーシー


 紛争解決においては、二つのタイプの暴力がある。それは熱い暴力と冷たい暴力である。
 熱い暴力とは、この火曜日にニューヨークとワシントンで起こった死と混沌である。熱い暴力とは、コロンバイン高校で起きた殺戮事件*2であり、またあのオクラホマ市で起こった爆弾事件*3に他ならない。熱い暴力では、言葉では言い表すことのできない恐怖を間近に感じることができるし、眼にも入ってくる。また、目撃者の感情も感じられる。怒りは直ちに生じるし、メディアもいち早くその現場に注目する。冷たい暴力とは、こうしたことはほとんどない。われわれの視野に入ることはないし、あまりにもありきたりのことなので、感情を刺激することもほとんどない。あまりにも普通で、メディアをひきつけることもほとんどない。冷たい暴力とは、例えば、病気もあわせて本来は防ぐことができるはずの飢餓による、世界中で約4万人とも言われている死亡者数のことである。しかし、それは遠い世界のことで、見えない現実である。少なくとも、アメリカ合州国の現実ではない。今回破壊された世界貿易センターのような現実ではない。冷たい暴力とは、例えば、合州国の威圧的な経済制裁によって毎日引き起こされているイラクの死亡者のことである。われわれはこれとそれとは別という区分けする術を身につけている。1999年の4月にコロラドの学校で殺戮があった二日後、クリントン大統領(当時)は、アレクサンドリアの公立高校に出かけて行って、調停クラブの生徒の友人たちに、「私たちの子どもたちに近づくために、もっとより多くのことを私たちはしなければならない。そして、彼らの怒りを表現し、武器ではなく言葉で、彼らの問題を解決するように教えなければいけない」と、述べた。
 そうした話をしたあと、彼はホワイトハウスに戻り、ベルグレイド(Belgrade)に対して、合州国NATOパイロットが一ヶ月前に解放されて以来の激しい爆撃を命じたのだった。家庭と仕事場と地域のユーゴスラビア市民に対する軍事的暴力を正当化し続けながら、スピーチでは、学校の暴力に対して、クリントンは別の方法を呼びかけたのだ。何千人もの人々を殺した彼の武器は正当で、学校での武器は悪だというのである。大統領の考えは、元ホワイトハウス補佐官のジョージ=ステファノポウロスの「あまりに人間的な」(All Too Human)にあらわれていた。1993年10月にソマリアの市街戦で殺された合州国の兵士たちについて語られた際に、クリントンは言った。「人々がわれわれを殺すとき、当然にも彼らは大規模に殺される。あなたたちを殺そうとする人たちが大量に殺されることについては問題がないと信じる。あなたを痛めつけようとする人々を殺すことには問題がないし、こうした大したことのないゲリラたちに小突きまわされることには我慢がならない」。こうしたことは、ダブルスタンダードの倫理基準というにふさわしい。熱い暴力は非合法・非公認で、冷たい暴力は合法で公認だとするものだ。
 非暴力に関する古典的な文献、「尊敬しうる殺人者たち」(‘The Respectable Murderers’)の中で、カトリック大学の社会学者であるポール=ハンリー=ファーフェイ(Monsignor Paul Hanley Furfey)は、次のように書いた。「ときどき起こる新聞の一面を汚すような犯罪、例えば、日々の略奪だとか、強姦や殺人は、個人や小集団の仕業である。しかし、巨悪や迫害、征服を目的とした不正義の戦争、罪のない人々の大量殺戮、全社会階層の搾取、こうした犯罪は、尊敬しうる市民たちの指導のもとで、組織された共同体によってなされるのである」と。
 解決策は何なのか。どうして解決していったらよいのだろうか。それは、政治的に、資金的に、感情的に、全てのダブルスタンダードな暴力の実行者に対する支持を撤回することだ。熱い暴力だろうが、冷たい暴力だろうが、非合法の暴力であろうが、合法的な暴力であろうが。
 支持する向きを変えて、暴力を無くすために働いている人々を支持するようにするのである。
 その支持がどこであろうとも、誰が熱狂的にその支持を正当化しようとしているにしても、である。報復のヒステリーが沸き起こり、戦闘配置につけというラッパの如く、報復せよという倫理的価値観が鳴り響いている今、支持を変更するのには、まさに打ってつけの時期である。
 非暴力の立場からの9.11に対する回答は、ガンジー(Gandhi)、マーティン=ルーサー=キング=ジュニア(Martin Luther King Jr.)、ドロシー=デイ(Dorothy Day)、ジャネット=ランキン(Jeannette Rankin)、フェローシップオブリコンシリエーション(Felloship of Reconciliation)*4やパックスクリスティ(Pax Christi)*5のような団体の中にある。
 それは、攻撃の背後の人々について言及している。われわれは、あなたを許す。われわれは、報復を受け入れない。われわれアメリカ合州国の全ての暴力、すなわちアメリカ合州国が世界の武器の主要な行商人であること、合州国の敵であるとされている各国の軍事予算を合わせたよりも何倍もの軍事予算を持っていること、グレナダ(Grenada)やリビア(Libya)、パナマ(Panama)、ソマリア(Somalia)、イラク(Iraq)、スーダン(Sudan)、アフガニスタン(Afganistan)、ユーゴスラビア(Yugoslavia)に対して合州国が爆撃したこと、われわれが独裁者たちを支持していること、そして、「われわれの国家は、神によって選ばれ、また世界の模範となるよう歴史的に委託されている」("Our nation is chosen by God and commissioned by history to be a model to the world.")と述べたブッシュ大統領の「好戦的愛国主義」(ジンゴイズム)を盲目的に信じていること、こうしたこと全てに対して、われわれを許してもらえるように乞い、さらに良心的な勇気を要求するのである。
 「模範」というけれど、一体全体、何の「模範」なのだろうか。あだ討ち、報復、恨みの沈殿の「模範」なのだろうか。あのハイジャッカーたちの頭の中では、結局それが9.11の全てだった。さらに、ここからそれを永続化するためには、さらなる「眼には眼を」を請け負うことだ。

      (2001年9月17日 ロサンゼルスタイムズ


 私がはじめてコールマン=マッカーシー氏の非暴力の思想を知ったのは、CNNのラリー=キング氏の「ラリー=キングライブ」('Larry King Live')を書籍化した1998年発行の'Future Talk: Conversations About Tomorrow with Today's Most Provocative Personalities’(Larry King , Pat Piper ) であった。
 各界の著名人とのインタビューの中の、コールマン=マッカーシー氏とのインタビューの内容は是非とも読んでもらいたい内容なのであるが、残念ながら、この本は現在取り扱いがされていないようだ。

*1:ワシントンの平和を教えるセンターの主幹であるコールマン=マッカーシー氏は、ジョージタウンロースクールアメリカン大学、メリーランド大学で非暴力を教えている[この主張が書かれた2001年9月現在]。

*2:1999年4月20日コロラド州はコロンバイン高校で起きた無差別射殺事件。2人の男子高校生が12人の生徒と1人の教師を無差別に射殺し、事件後、自殺した事件。マイケル=ムーア監督による「ボーリングフォーコロンバイン」(2002年)はこの事件を背景にしている。

*3:1995年4月19日にオクラホマ市で起こった連邦政府ビル破壊による無差別テロ事件。168名が死亡。600名が負傷したと言われている。

*4:Fellowship of Reconciliationについては、以下のURLを参照のこと。http://www.forusa.org/

*5:Pax Christiについては、以下のURLを参照のこと。http://www.paxchristi.net/