さて、こうして講師にご迷惑のかけっぱなしの私なのだが、ウェダーを履いて、湖に入っての夜釣りはいい。
向こう岸にはロトルアの飛行場があるはずだが、かなたのロトルアの夜景がきれいだ。幾人かの釣り師のシルエットのすぐ近くを白鳥が通ったりして、なんとも言えず、夜釣りは気分がいい。レイの話では、大晦日には花火もあがると言う。花火が水面に映し出し、花火を見ながらの釣りは素晴らしいよとレイは言った。
ところで、昼の釣りもままならない私には夜釣りは到底無理だ。
だから夜釣りは、講師レイの釣りを見ていれば充分。
暗闇の中で、ヒューヒューというムチのようなレイのキャスティングする音だけが聞える。釣りができなくても、釣果がなくても、私は夜釣りの雰囲気が大いに好きになった。
ところで、こうした暗闇の中で、釣りが楽しめるようになるには、当然いろいろな条件に対応できないといけない。
例えば、レイはフライを変える際にフライを湖に落としたのだが、自分のことを自分で「バガー(bugger)」と言っていたから、めったにないことなんだろう。通常2.5ドルくらいのフライだ。レイは諦めるのかなと思っていたら、サーチライトをあてて、ロッドの先でひろいあげてしまった。湖の中でも、彼はとても自由だ。フライを代えるのも当然問題がない。
こうして彼がキャスティングしたものを、ときどきレイは私にラインをたぐりよせさせたりしていたのだが、何回もキャスティングしていた中で、どうやらあたりがあったらしい。レイが私に棹を渡して、「巻いてみろ。魚が逃げ出したら、行かせてやれ」と突然言った。
魚が逃げる際には、ジーっとリールが回転する。
巻けるときにはもちろんリールを巻く。どれくらいの時間が経ったろうか。真っ暗な闇の中では、釣りをしているのか、何をしているのか、実感が湧かないものだ。
こうして私は初めてニュージーランドで鱒を釣り上げた。
こいつはちょいと小さめの奴だが、それでも、35センチくらいはあるだろう。棍棒のようなモノでマスの頭を叩いてマスをしめて、鱒のえらと口にロープを通してレイは魚を腰に巻いた。まさにレイは狩人である。
さて、夜釣りもそろそろ終わりの時間だ。
釣りをやめて帰る際には、必ず、最後のキャスティングをして岸辺に戻りながら、リールを巻いて帰るのが釣り人の作法だとレイが教えてくれた。フライが水の中にある限り、何が起こるかわからないというのが釣りの世界ということなのだろう。
岸にあがるまで、レイは、湖の様子を観察している。地方紙に釣り情報を載せる際の、何か参考になるような情報を捜し求めているのかもしれない。
岸辺にあがると、他の生徒に私が一尾釣り上げたと宣伝してくれて、マイケルやデイブも良かったねと褒めてくれたのだけれど、なんだか子ども扱いのようで、私の気持ちは何とも複雑だ。
私のような生徒にもプライドっていうものがある。正直こんなことをされて嬉しくもなんともない。
それでも、魚が釣れようと釣れまいと、本物の釣り師と夜釣りにつき合えた時間は、自分にとって大変貴重だったし、自然に囲まれたというより自然の一部に溶け込めるような気分を味わえたという意味で、実際これほど充実していた時間は私の人生の中でもこれまでなかったろうと思う。
ということで、夜釣りは最高だということが身体で実感できたことは私にとって最大の収穫だった。