問題は、ヘルプの思想で、教育環境をつくれるかどうかにかかっている

 教育は、ヘルプの思想で生徒を守り育てる環境をつくってやらないといけない。
 もちろん学習内容は、上から押しつけてはいけない。生徒や市民、教師、大人が学校では何を学ぶべきか自主的議論の末に決めるべきだ。そうして決められた学習内容なら、学んで自分を高めようとしない生徒はいないはずだ。生徒はできないから学校に来ているのであって、塾や自分でできるなら学校なんていらない。だから、学校はできない奴にあたたかくないといけない。学校はヘルプの思想で武装・防衛しないといけない所なのだ。
 これまでひとつの私立学校で、高校教育に24年間も従事してきた俺は断言するけれども、こと教育分野において、今の日本が面白くなく、内容が空疎になってしまった原因の一つは、生徒人数の多さにある。こうした劣悪な教育環境を支えているものは、教育にお金をかけない我が国の教育行政の貧困さにある。先進国と言われる国のクラス人数を比べてみよ。我が国の貧困さは、まさに稀有のレベルと言えるのではないか。
 今現在、私はニュージーランドで研修中であり、見られるように、俺などは教師として特段に恵まれている方である。多くの教員は多くの生徒人数を抱えて劣悪な教育環境の中で日夜孤軍奮闘している。
 教員をめざした人間は、常に例外はあるけれども、もともとそんなに悪人が集っているわけではないだろう。けれども、教員に研修もさせないのでは、堕落した教師しか生み出しえないだろう。自主的な研修活動も弾圧し、上から管理的に押しつければ、物を考えず物も言わない教師が増えて当然だ。
 急激な産業化のために自然もフィールドも破壊されてきてしまった今の日本で、子どもがやれることといったら、狭い部屋でのテレビゲームくらいだ。こうした生徒をたくさん詰め込んだクラスで、多忙な教師が、どう教えたらよいというのだろうか。
 先の毎日新聞も続けて、「特に『意見発表の機会を与えてくれる』では、『いつもそうだ』『たいていそうだ』を合わせても肯定派は46%と半数に届かず、OECD加盟国平均を12ポイントも下回った。逆に『ほとんどない」は平均を7ポイント上回る20%だった。生徒と教師の関係を問う質問「多くの先生は、生徒が満足しているかに関心がある』も肯定派は45%にとどまり、平均を20ポイント下回った」と報じているが、これなどもずっと前から現場で指摘されてきたことであり、情けないけれど、当然予想される結果だ。
 ひとつのクラスの生徒人数を減らすこと。教師の持ち時間を減らすこと。教師の雑用を減らすこと。そのためには、繰り返しになるけれど、ヘルプの思想を重視して、教育労働者*1を増やすことだ。教育現場は、企業ではない。人員解雇をして、教育がよくなると思ったら、それは余程おめでたい人だ。
 毎日新聞は、「学校への信頼感も他国より希薄だ。『(学校が)仕事に役立つことを教えてくれた』に肯定的に答えた生徒は59%と加盟国平均より28ポイントも低く、13カ国中で最低。『決断する自信をつけてくれた』も52%と18ポイント下回った」と続ける。
 自分をヘルプできないものが、どうして他人をヘルプできようか。
 今の日本の教師が置かれている状況は、自分のこともままならない劣悪な状況に置かれているのである。生徒の質問に答えたくても、生徒の面倒を放課後の空き時間に見ようと思っても、放課後の空き時間がそもそもないのだから、どうしようもない。
 ニュージーランドの研修で、俺が何よりも驚いたのは、こちらの教職員の生徒に対する面倒見のよさである。いや、教職員だけではない。まず労働者や市民からして時間的余裕がある。だから、キーウィーは挨拶なんかもきちんとしているし、通りで知人はもとより、見知らぬ人にあったとしても、興味をもって話し始めれば、話し込めるだけの時間的余裕がある。
 大体俺の下手なイギリス語もよく聞いてくれるし、興味も持ってくれる。日本なら、たとえ興味を持ったところで、次の自分の課題へと行かなくてはならないから、つき合っている暇がそもそもないだろう。
 教職員だってそうだ。みんな楽しそうに仕事をしている。職員の対応もいいし、大学の教師だって、時間を約束すれば、いつだってつき合ってくれる。なぜなら彼らに時間的余裕があるからだ。
 大学だけじゃない。各高校で実施している市民講座だって、そうだ。俺が受けたフライフィッシング講座や英語講座でも、どこでもヘルプの思想で援助を受けることができた。そもそもニュージーランドはボランティア活動が多いというのが、市民にゆとりがある証拠だ。ニュージーランドの方がずっと他人に対して親切にできる社会になっている。
 繰り返すが、自分をヘルプできない奴が他人をヘルプできるはずがない。ヘルプの思想で、教育環境をつくりあげるには、生徒にも教師にも本当の意味でのゆとりがないといけない。
 そこで思い出すのが、日本の「ゆとり」教育だが、日本の「ゆとり」教育とは、官僚的に押しつけている学習指導要領を間引いただけのものだから、手がつけられない代物になってしまっている。カリキュラムが、体系的・科学的でもないし、内容もますますスカスカになってしまっているからだ。何故、市民、教師集団のレベルで、集団的な英知を結集してモノをつくりあげようとしないのか。日本はそうした力量を充分に持っているはずだ。
 日本の教師の置かれている状況を考えると、悲しすぎて、涙が出そうになる。
 先の新聞は、「教師の質や充足度も見劣り」との小見出しで、「前回に続きトップクラスの成績だったフィンランドや韓国は日本とどこが違うのか。両国はともに『教員の質』を重視している。文科省によると、フィンランドは教員資格の基準を大学院修士課程修了以上としている。今回の学校長らへの意識調査でも、教師の充足度を示す指標(加盟国の平均値は0)は韓国の0.64とフィンランドの0.56が飛び抜けて高い。日本は0.04で平均水準だった」と述べているが、「大学院修士課程終了以上」かどうかというのは、日本では、あまり関係がないだろうと俺は見ている。むしろ問題は個々の教師の日常的な研修時間と長期的研修時間の保障、そして、ひとりよがりにならないように、教師の自主的・集団的研究・研修の奨励である。
 日本は、このどちらも欠如していて、絶望的だ。
 自主的研修といえば、サークル活動や、個人個人の努力で細々と手弁当でやっているに過ぎない*2
 さらに日本は、田舎政治の「日の丸・君が代」問題なんかで、校長と教員集団に亀裂を持ち込んでいるから、子どものことを真剣に考え、教育問題や学力問題をどうにかしようと教師たちが意欲的になる前に、現場では、その意欲が萎えて減退してしまっていることだろう。
 何をか言わんや、である。

*1:教育労働者とは、教師だけではなく、職員も含めて、子どもの教育環境を守るすべての労働者を含めた概念をさす。

*2:それどころか、夏の民間研修活動の合宿に自費で個人的に参加しようとして弾圧された例などざらにあるのが悲しい日本の実態だ。