マオリ王運動

 このマオリ王運動として、1856年に、テ フェロフェロ(Te Wherowheero)が初代マオリ王として選ばれる。彼はポタタウとして(Potatau)、1858年にナルワヒアで正式に就任する。多くのヨーロッパ系移民からすれば、これは不忠に他ならない。マオリ王運動の影の立役者であるワイレム=タミハナ*1や多くのマオリからすれば、イングランド女王とマオリ王は、補完的で調和すると考えた。
 ところが、繰り返しになるが、北島の真ん中に進み出ようとするパケハからすれば、マオリ王国は、まさに障壁であった。オークランドとニュープリマスの人口が新しい植民者で溢れ出しているというのに、これ以上土地を売らない*2ということが、マオリからのあからさまな挑戦として、マオリ王運動が映ったわけである。
 これはワイカト戦争の起こる前に、地域もワイカトではなく、タラナキで起こったことだが、1859年、アティ アワ(Ati Awa)のチーフ、テ テイラ(Te Teira)が、ニュープリマス近くのワイタラ(Waitara)の243ヘクタールもの土地を政府に売ったことに対し、ワイレム キンギ テ ランギタケ(Wiremu Kingi Te Rangitake)がこれに反対し、テ テイラにはその権限が全くないと述べたが、取引は成立したと総督は言い張った。
 1860年3月にワイレム キンギの支持者たちがワイタラ(Waitara)の地を占拠して、タラナキ戦争(Taranaki War)として火花をちらすこととなった。

*1:ワイレム=タミハナは信心深いキリスト教徒だった。

*2:土地は聖なるもの(tapu)で、王の保護のもとにおかれるべきとマオリたちは考えた。