タラナキ戦争からワイカト戦争へ

 ロンリープラネットガイドブックから、再び、マイケル=キングの本に戻る。
 マイケル=キングの本によれば、タラナキ戦争の結末については、次のようにある。
 タラナキ戦争にそなえて、ゴア=ブラウン総督(Governor Gore Browne)は、オーストラリアから3000人もの帝国軍を呼び寄せたが、一方のマオリの総勢は、ほぼ1500人だった。
 1860年11月に帝国軍が勝利することとなり、1861年3月にはワイレム=タミハナの助力もあって休戦となったが、本当の意味での休戦を信じるものは誰もいなかった。
 1863年3月、再び闘いが開始された。
 しかしながら、今度の地域はワイカトであり、その規模も拡大された。
 1862年に、軍事ルート(a military route)として、オークランドから、グレートサウスロード*1(the Great South Road)が建設され、マンガタフィリ川*2(Mangatawhiri River)まで道路は伸ばされた。砦が建設され、オークランドとは電報でつながり、オークランドという強い食料供給ラインが背後に確保されることとなった。
 1864年初頭、イギリス軍が2万人の軍隊を擁した。その一方のマオリ側は、5000人。その上、マオリは、あちこちからの寄せ集め部隊だから、同時期に、戦場に2000人以上集ったためしがないという規模にすぎなかった。*3

*1:オークランドからハミルトンに向かうグレートサウスロードが軍用道路として建設されたことは記憶に留めておいてよいことだ。

*2:マンガタフィリ川は、私がマオリ土地戦争フィールドワークを開始した最初の町、ポケノ近くを流れている。

*3:“The Story of New Zealand”によると、イギリス軍1万2000人に対して、マオリは4000人という数字になっている。当時のマオリの全人口は少なかったから、19世紀の1万2000人のイギリス軍は、今日でいえば、100万の軍隊にあたるだろうとの記述がある。