ホームステイの住所に行ってみたが、てっきり留守かと思った

 その住所に実際に行ってみると、シティセンターから車ならどうってことのない距離だが、歩くとなるとかなり時間がかかる場所にあった。
 ブザーを押してみても、誰も出てこない。
 隣の家で作業をしている男性がいるので聞いてみると、たしかに隣家にはアジア系の学生がいるということなので、再びブザーを押してみたら、ドアが開いて、10代の日本人の女の子が出てきた。
 てっきり留守かと思ったと私が言ったら、家に誰もいないんで、どうしたものかと思ったという。
 実にこれはよくわかる話だ。
 私も、初めてアメリカ合州国に滞在したときに、最初に怖かったものは、とにかく電話だった。
 電話って奴は、誰からかかってきたのか、情報を得ることができない*1。相手もこちらの顔がわからないから、お互いに情報不足で、いきなり音声だけでの応対に入る。これが私が電話が嫌だった理由だ。
 顔を合わせてのコミュニケーションならば、そんなことは起こらない。
 相手がアジア系の私の顔を見て、私がたどたどしい英語を話し始めれば、情報不足にはならないからだ。
 だから当時の私は電話の呼び鈴が鳴ると、どうしたものかと、大袈裟にいえば電話恐怖症に陥ってしまっていたものだ。その時の経験を私は鮮明に思い出していた。
 彼女はニュージーランドに来て一ヶ月ほどになるらしい。
 高校へは20分くらい歩いて通っているようで、雨の日は、ホストファミリーが送ってくれるという。
 ホストファミリーはどうなのと聞くと、いい人たちだという。これは彼女にとって幸運なことだ。
 ご飯はどうですか、口に合いますかと言うと、ほとんど問題がないけれど、ステーキなど味が薄く感じるという。
 こちらのスーパーには醤油なんかも普通に売っているから、買って自分なりに味つけることなんかもしてみたらと、私は彼女に言った。
 キーウィは、思ったことを言っても気にしない人たちだから、思ったことがあったら、言った方がいいよとも、私は助言した。
 英語をマスターしようと最初は意気込んで来たけれど、ここでは誰も自分のことを知っている人間がいない。だから、日本や自分のことを改めて考え始めているので、それが自分としては面白い体験だという。「自分の姿を鏡で見るような気分かな」と私が言うと、そんな感じだという。
 日本の高校生で1ヶ月の体験なら、これはなかなかの卓見である。
 生まれ育ったところだけなら、自分は見えない。社会学でいうと、相対化ということになるのだろう。他民族を見て、自分たちの姿がようやく見えるということになるからだ。

*1:最近の電話なら、相手を確認する方法もあるのだろうが、これは、24年も前の話だ。