英語を突きはなして、批判的な態度で英語を学ぶ

 トラガ湾のコハンガレオで、私は園長さんと話をした。
 この73歳の園長の個人体験では、家庭やマラエではマオリ語を話し、学校では英語を話さないといけなかったが、当時の彼女は英語が話せなかったという。だから彼女にとっての英語はあとから一生懸命学んだ言語だ。
当時の主流の価値観は、「白は正しい」(”White is Right.”)というもので、マオリのものは全てよくないという価値観だったという。白人の教師も「善意」で英語を教えていた。
 だから彼女にとって、マオリ語が第一言語で、英語が第二言語になる。
 彼女の英語は素晴らしく、今ではかなり立派な英語の使い手である。
 そんな彼女だから、最近の若い人の英語はなっていないという。スラングが多くて、汚いコトバ使いが少なくないというわけだ。
 それにしても、英語は変な言語だと彼女は言う。
「enoughのghをfと発音しないといけませんしね」と私が言うと、そうそうと同意してくれて、「knifeのkは読まないし」と、彼女はつけ加えた。
 そんな変な言語を25年間も私は学校で教えてきたと私が言うと、二人で大笑いになった。
 「英語には深い文化もない」とまで彼女は言うので、「そんなことはないと思いますよ。例えば、文化(culture)というコトバは、「耕す」(cultivate)という語源と関係していて、人間は、自然を加工することによって、人間自らを加工してきたわけで、cultureは、農業(agriculture)とも関連しているコトバですね。その点で、文化(culture)は、文明(civilization)とは違うわけで」と私は切り替えしたが、彼女は、そんな面倒くさいこと言ったってという顔をした。
 いずれにせよ、文化を支えるのは言語である。マオリ語に文化があるように、もちろんイギリス語にも文化があるということを私は言いたかっただけなので、私はそれ以上反論することはやめた。
 立派な英語を話せる彼女が、こうして英語を突きはなして、批判的に考えている姿勢に私は感銘を受けた。
 大体これくらいじゃないと、英語なんて話せないと私自身考えてきたからだ。
 英語をありがたがって憧れている人たちが案外英語を使いこなせず、願望だけにとどまっている一方で、英語を批判的に見ている人たちの方が、英語のうまい使い手であったりするのは皮肉だが、本当の話だ。
 私が英語にも文化があるとちょっぴり擁護したのは、しょせん私も英語教師であるということ。あるいは、植民地化されてしまったマオリと、内面的な植民地化は今日ますます進んでいるとは思うけれど、表面的には植民地されることのなかった日本との違いなのかもしれない。
 いずれにしても、英語は突き放して学んだ方が、モノになると私は考えている。