小沢昭一の随談を聞きに、新宿末広亭に行ってきた

小沢昭一がめぐる寄席の世界

 とても忙しいのだが、小沢昭一さんが新宿末広亭で随談をやるというので連れ合いを誘って、新宿まで一緒に出かけてきた。
 夜席のとりをつとめた柳家小三治によれば、大の競馬好きの小沢が話の枕として用意したのが競馬の話だった。その馬の話から始めたのだが、立ち見で一杯になった末広亭の、昨晩小沢を観に来た客層には、馬の話は二回も空振りに終わって、すぐ小沢は話を切り替えた。
 俳優でもある小沢昭一が自分の出たB級映画だけをまとめて東京でやったら、大入り満員で大いに受けたが、これが大阪では、なんでB級映画だけを上映するような企画に銭を払わにゃいけないのと、全く受けなかったという。その大阪で戦前活躍していた懐かしい芸人の一人に、扇遊という尺八吹きの名人がいた。
 尺八を吹いていた扇遊は、あるときから、自分で納得のいく尺八の音が出せないために、尺八を吹くのを止めて、高座で尺八を磨くだけの芸になった。
丁寧に尺八の外側を磨いたあと、内側も磨く。その仕草が大変高尚で、観ていて飽きなかったという。1本目が終わると、次に2本目にうつる。この尺八を磨く芸を東京でも是非というので、扇遊は東京に引っ張られたらしい。
 小沢は、扇遊の尺八を磨く芸が好きだったようだが、ある日、東京の銀座がどこかで、客が4人くらいしかいない小屋でこの扇遊の芸を観ていたら、空襲警報が鳴ったことがあった。空襲警報に慣れっこになっていた客も扇遊も、そのままだったが、その日は、なぜか扇遊が尺八を吹いた。
 演目は、「戦友」。
 「ここは御国を何百里 離れて遠き満州の 赤い夕日に照らされて 友は野末の石の下」というあの軍歌だ。この歌のさわりを小沢は末広亭で歌った。なぜ長年尺八を吹くのを止めた扇遊が尺八を吹く気になったのか。空襲警報が鳴ったので、「戦友」を尺八で吹く気になったのかと思っていたら、よくよく考えてみると、「扇遊」と「戦友」の洒落だったかもしれないと、小沢は言う。
 扇遊は、あの3月10日の東京大空襲で亡くなった。
 空襲にあった扇遊を友人が必死に捜していると、瓦礫の一番下から扇遊の死体が見つかった。扇遊は奥さんと手をつないで亡くなっていたと話す小沢は、高座で泣いていた。
 扇遊の話を終え、ハーモニカを取り出した小沢は、扇遊のように、1本、2本とハーモニカを磨き始める。ハーモニカを披露するかどうか、客を少しじらした小沢の演奏は、もちろん扇遊のやった「戦友」だ。
 戦後60年に扇遊の供養の話、小沢昭一の話芸もハーモニカも見れて、涼むのにちょうどいい夕べだった。
 著者のサイン入りの「小沢昭一がめぐる寄席の世界」(朝日新聞社)も末広亭で購入した。