芝山公園を訪れる

 日本統治時代に、日本から台湾に来た教師たちが必ず最初に参拝に訪れた場所が芝山巌(しざんがん)である。当時ここは「教育の聖地」と呼ばれていた。
 日本統治時代に、総督府が重視したことのひとつに教育があったことは想像に難くない。
 「観光コースでない台湾」によれば、1895年(明治28年)、文部省の学部長心得という地位にあった伊沢修二が、台湾においては教育を最優先することを強く主張し、自ら学務部の長となった。「台湾総督府が始政式を挙行した翌日、伊沢は六名の教師とともに台湾へ渡った。そして台北盆地の北方に場所を選び、芝山巌学堂を開いた。これは日本が外地に設けた最初の教育機関である。
 学堂は「国語学校」と呼ばれた。これは台湾の地における国語教員、すなわち日本語を教育する指導者の養成学校だった。学堂が設けられたのは、山頂にある恵済堂という廟の辺りであった。現在は、真新しい廟宇が完成しており、往時の姿をとどめていないが、ここで日本語教育についての研究がおこなわれていた」とある。
 当時は、抗日勢力が各地でゲリラ活動を展開していたが、伊沢たちは、「身に武器を持つことなく民衆の中に入っていかなければ、教育というものはできない」ということで、死を覚悟して学堂に居座ることに決めたという。
 その結果、1896年(明治29年)の元旦に士林一帯で蜂起した叛乱勢力が襲撃され、六名の教員*1による説得にもかかわらず、惨殺されたと言われている。
 このエピソードは「美談」として広く宣伝され、芝山巌(しざんがん)は「教育の聖地」とされ、「六士先生」は聖職者として讃えられ、命をかけて教育にあたるという芝山巌精神が「終戦まで台湾教育界の指針とされた」のであった。
 台湾を訪れたら、私は芝山公園を訪れたいと思っていたのだが、伊藤博文の筆による「学務官僚遭難之碑」も見ることができた。
 ここは、ガイドの蘇さんも知らなかった場所だった。

*1:伊沢自身は帰国中であり、この中には入っていない。