やはり日本の英語教育でめざすべき目標を日本の言語環境から考えるべきだという思いを強くした

感動的にうまいチキンライス

 1年間だけだが、オーストラリアはタスマニアの学校にいたときの息子の友人が三人、うちに遊びに来ていた。オセアニアはいま夏休みだが、一人はその夏休み中に日本にたち寄ったということで、三泊だけして今日朝早くに次の旅行計画のために家を出ていった。それまで夜更かしと朝寝坊ばかりしていたので、そんなに早く起きれるのかなと思っていたら、私の寝ている間に出かけていった。見事という他ない。
 いま「一人はその夏休み中に日本にたち寄った」と書いたのは、その一人は中国系シンガポール人で、シンガポールからタスマニアに留学中なのだが、あとの二人は、日本人とアメリカ人・オーストラリア人を父母にもち、日本で暮らしているからである。この二人は日本語も英語も両方できるが、そのうちの一人は、60対40くらいで、英語の方が得意だと言っていた。もう一人は、英語も日本語も変わらないが、英語にしても日本語にしても書くのが苦手だという。これはどうやら謙遜ではないらしい。
 シンガポール人は、日本語がほぼダメだけれど、もちろん私の相棒も含めて、彼以外はみな日本滞在が長いから、日本語でのコミュニケーションには全く問題がない。ところが、シンガポール人とのコミュニケーションとなると英語になるから、私の相棒が少し困ることになる。つまり、シンガポール人に配慮するなら英語、私の相棒に配慮をするとなると日本語となってしまうのだ。
 こうなると私の英語は乱れる。というか、リズムが全く合わない。私の場合、なんといっても母語である日本語の方が断然気持ちがいいからだ。
 この点、当たり前だが、バイリンガルである、息子の友人二人は全く乱れがない。父親と母親のそれぞれの母語でいえば、異なる母語の話者に育てられた生育環境だから、コトバのリズム・スピード・パワーが違う。
 やはり、このあたりの問題を考えて、日本の英語教育でめざすべき目標を、日本の言語環境から考えるべきだと思うのだが、世間は、戦略的思考もなしに、英語・英語と騒いでいるだけだから始末におえない。
 ところで、この三人だが、躾が行き届いている。
 まず、挨拶がきちんとできる。自分というものをきちんと持っている。コミュニケーション能力が高い。自分たちの将来に対して考えも見通しももっている。食事をふるまってもらえば、皿洗いもする。何人かは料理も得意だそうだ。無理しない程度に、みやげ物を持ってくる。今朝の早起きにみられるように、やるときはやるという決断力と実行力がある。ということで、なんとも気持ちのいい青年たちなのであった。