教員の採決禁止で、教員も生徒も、ますます議論を通じて意見の一致をみる訓練ができなくなる

 もちろん、そもそもが、リーダーシップとは、独裁という意味ではない。
 構成員の個々の意見を聞いて、説得と納得において、統一見解を深め、高める議論をおこなうことだ。そうした決定をして、構成員全体で教育活動にあたることである。
 レベルの高い教育集団ができていないと、意見がまとまらず、バラバラの段階にとどまってしまう。それならば、管理職の権威を高めて、管理職の言うことをよく聞くようにしたいという思惑なのかもしれないが、それは意見を戦わせて、よりよい結論をもつ討議ができないということを意味する。つまりレベルの低い集団を意味してしまうのだ。
 教育の現場で、高いレベルの討議ができないことは致命的である。
 そうした場合、管理職が指導性を発揮して、討議を組織することが重要であるのだが、そうしたリーダーシップ(指導性)と、結論を押しつけるようなインチキの「リーダーシップ」とは似て非なるものであり、後者は普通、独裁とか官僚的という。
 独裁の意味で「リーダーシップ」を用いる人たちの考え方の根本には、構成員の能力を認めていないということがある。構成員の力を評価せず、バカにしている。民主主義や討議の力を認めていないと言い換えることもできる。こうした人たちは、すべて反民主主義的であり、反民主主義者である。
 教育困難、たとえば学力問題の解決は、学校全体で取り組んでいるかが重要である。教育は、やはり構成員の総合力が重要であるからだ。 構成員が意見を戦わせて意見の一致をみて、教育実践にうつすことが今日何よりも重要である。
 その意味で、いろいろな意見を統合できる真の意味でのリーダーシップが求められている。
 だから、学校の総合力を引き上げるためには、採決禁止ではなく、どんどん採決をさせるべきだ。そうでなければ、学校の総合的教育力量は高まらない。校長の権限強化は、学校の総合力を高めると宣伝されているが、それは逆である。構成員の声に耳を貸さない、一方的な校長の権限強化は、学校の総合力を高めるのではなく、逆に低下させることになるだろう。
 教員に採決を禁止すれば、教員に議論する力が育つはずがない。そうなれば、ますます、生徒に議論する能力が身につかないことは明らかである。
 意見を戦わせ、全体状況の中で何が重要なのか、さらに今何をすべきなのか、その優先順位を考える訓練など、まるでできていないのが日本の憂うべき実情であり、学校教育の中でこそ子どもたちに民主主義を教えないといけないのに、教員の採決禁止は、まさに逆の政策であり、教育の死を意味すると言わざるをえない。