梶山季之原作、ジェームス三木脚本・演出の「族譜」を観てきた

 青年劇場の「族譜」を観てきた。
 劇の舞台は、昭和15年、朝鮮京畿道水原郡。日本政府による皇民化政策「創氏改名」をテーマとして、改名を拒否する地主・薜鎮永(ソルジニョン)の物語である。
 薜は、日本軍にたくさんの米を献納する親日家であったが、先祖代々受け継がれてきた名前を日本名に変えるように言われるけれど、先祖代々大切に保管している「族譜」に記述されているように、700年も続いてきたものを簡単に変えるわけにはいかないと拒み続けている。やがてさまざまな圧力がかけられて、「創氏改名」に応じてしまうが、民族的誇りを奪われた結果、薜鎮永のアイデンティティは引き裂かれ、自殺に追い込まれてしまう。
 舞台の最後は日米開戦のラジオ放送で終わっていたが、朝鮮、日本、そしてアメリカ合州国と、言語の問題でいえば、朝鮮語が日本語に弾圧された歴史を持っている。自分のコトバを奪われ、宗主国の言葉を押しつけられるという話は、非常に悲惨だけれども悲しいことに歴史上よくある話だ。たとえば、日本語と朝鮮語。日本語と中国語。イギリス語とアイルランド語。イギリス語とマオリ語、等々。
 母語を話すという権利は基本的人権の中でも中心をしめるものであるし、自分の姓名を名乗るというのも至極当然、同様である。
 けれども、この辺の理解が植民地になった経験をもたない日本人にとっては簡単に理解できないのだろう。
 青年劇場による劇は、同じくジェームス三木氏の「悪魔のハレルヤ」を2004年に観たことがある。こちらは日米関係を扱ったものだったが、同じく素晴らしい問題提起だった。
 こうしてみると、改めて思うのは、やはり英語教育や英語学習というのは危うい営みであり、植民地主義的ではない英語教育というものは可能なのかという根本問題である。この問いに対しては簡単に答えが出ないにしても、問い続けなくてはならない課題である。