井上ひさしさん作の「紙屋町さくらホテル」を観てきた

紙屋町さくらホテル

 井上ひさしさん作、こまつ座による「紙屋町さくらホテル」を観てきた。
 この芝居は、昭和二十年十二月の巣鴨プリズンから始まり、七ヶ月前に戻っていく設定になっている。
 今回は再演ということだが、日系人問題も含めて、いろいろなテーマが重層的に綴られてドラマは展開していくから、いろいろな見方ができると思うのだが、私なりに理解できたことは、第一に、天皇そして国家権力の戦争責任である。国体護持か、それとも国民(臣民)の命を守るのか、何を優先的に考えるのかという判断基準、また、何を基準として判断がなされたのか、その歴史的事実。さらに、その判断の遅さによって、沖縄戦、そして広島・長崎の原爆投下という最悪の結末をまねいてしまったという歴史的教訓、その痛恨の思いだろう。そして、この教訓は今日につながっている。
 劇の中で原爆投下は出てこない。B29に対する空襲警報と避難する場面ばかりだ。けれど、最後のシーン、長谷川清役の辻萬長と桜隊との別れは、歴史を学んだ者ならば、原爆投下が脳裏から離れることはできないだろう。そのとき、私たちは国家権力の戦争責任に思いをはせるのだ。
 第二に、井上ひさし氏の新劇へのオマージュである。河原乞食とも言われる役者の定義、役者はどうあるべきか、その演技はどうあるべきか、そして、新劇をつくってきた先代の人々、すなわち築地小劇場からつながる歴史、そして俳優・滝沢修らの先駆者に対する敬意である。
 第三に、どのように表現すべきなのか、コトバで何ができるのかという、コトバの問題が表現されていたように思う。「無法松の一生」という劇中劇で、劇とはどうあるべきかが語られる。また、世界の諸言語で「否定」はn音であらわされるという有名な逸話が言語学者によって紹介される。
 そして、第四に、こうしたさまざまな状況の中で、殺されていった人たちの鎮魂歌が語られるのである。死んでも死に切れない後悔の念、口惜しさである。それは長谷川清の、自分を戦犯として裁いて欲しいという望みにあらわれていた。
 さらに、その点でいうならば、言語学者・大島輝彦役の久保酎吉さんの熱演が光っていた。
 言語学専攻の教え子を戦地に行かせてはならなかったと、この学者は悔やむのである。
 熊田正子役の栗田桃子さんは、この言語学者・大島輝彦のスピーチを聞きながら、実際に泣いていたような気がしたが、久保さんの演技はそれほどの素晴らしい熱演だった。