教育再生会議の提案で本当に教育は再生するのか

amamu2007-06-02

 教育再生会議は、その成り立ちのさせ方やあり方、そして構成の仕方からして問題があると批判されてきた。例えば、東京大学助教授である本田由紀氏の「教育についての科学的な検証に従事している者をひとりも含まないメンバーから成る教育再生会議」というのも、そのひとつだ。
 こうした論点は、ここではひとまず置いておくとして、今回わたしは、これでは教育は「再生」されず、教育の息の根のとどめをさされてしまうと思いながら、発表された教育再生会議第二次報告を読んだ。
 教育「再生」会議の第2次報告は、文書としての論点が一貫しておらず、用語の使い方も曖昧で、読んでいてよくわからない点が多かったが、それでも、「全国学力調査の結果を徹底的に検証・活用し、教員定数や予算面で支援」とあり、ようするに、「競争原理」の活用という点では明確だった。
 「教員評価をふまえた」「メリハリ」のある「教員給与体系」だの、おそらくは大学・大学院間のという意味だろうが、「競争的資金の拡充」だのと、つまり「競争原理」を活用するということは理解できた。そして、徳育の押しつけである。こちらもはっきりと理解できた。
 それで、現場で働く一教員として、そうした内容が教育をよくするとは到底思えないということを私は率直に述べざるをえない。全国型の学力テストを課して、その結果で評価し、予算を配分するというやり方は、本来教育に馴染まないのである。
 今回の第二次報告には、「グローバルな大競争時代に必要な最先端の「知」を生み出し、イノベーションを起こせる人材の育成」や、「国際社会で活躍できるリーダーを育成」と、薄っぺらい情勢認識と教育目的論が書かれているが、中味がないし、説得力がない。
 なぜ、そう断言するかといえば、第一に、教育基本法が改悪され、さらに憲法までもが改悪されようとしている情勢にあって、教育をどうするのかと考える場合、憲法やもとの教育基本法を擁護しようとする視点がなければならないのに、そうした視点が欠如しているからである。国民主権基本的人権の擁護、そして平和主義の問題である。教育は人格の形成を目的とする。その点について、第2次報告は、私にはよくわからなかった。
 第二に、道徳教科の問題でいえば、その問題分析が違う。私から言わせれば、子どもが育たないのは、道徳が欠けているからではない。日本の現代社会が教育的な社会になっていないからである。そもそも「カネと政治」問題に見られるように、大人が大人らしく立派に育っていないのに、子どもが立派に育つわけがない。にもかかわらず、子どもに道徳を押しつけるとは、本末転倒の話で、噴飯ものと言わざるをえない。まず、大人が襟を正すべきだし、なによりも政治家がしっかりすべきだ。
 第三に、重要な学力論だが、いまの日本の学力問題で重要な点は、学力格差と下部層の基礎学力の未定着の問題である。全体の学力を上げようという施策をしないものだから、学力格差が社会格差と同様に広がっていると思われる。下部層や中間層の落ち込みから全体の平均を下げていると予測され、この基礎学力の未定着は大きな社会問題になってくるだろう。また、いわゆるできる子といわれている層にも、問題がある。勉強を面白いものと思ってやっていない点と、社会観・世界観のゆがみである。
 いま、新聞に取り上げられるような問題を起こす生徒は、社会階層で上層と言われる階層出身者であったり、いわゆる進学校に通っている生徒だったりすることからも見てとれる。
 ようするに、時間数の問題ではなくて、質の問題であると指摘されている*1のである。
 国内総生産GDP)に占める教育機関への公的支出の比率をみると、アイスランド(小中高5.2%+大学・大学院1.1%)、フィンランド(小中高3.9%)+1.7%)に遠く及ばず、お隣韓国(小中高3.5%+大学・大学院0.6%)にも負けて、日本は、小中高2.7%+0.5%である。平均は、3.6%+1.1%だから、OECDの中でも日本はとても低いレベルだ。それで、予算の配分については、「メリハリ」だの、「競争的資金」だのと言っている始末なのである。
 ようするに、日本は、金を出して口を出さずではなく、口は出すけれど、金は出さないという路線なのである。
 やるべきことをやらずして、やらなくていいことをやっている日本の政治のお粗末さも、ここに極まれりというところだ。
 これで、教育が再生できると考える人はよほどおめでたい人だ。

*1:たとえば、東大助教授の本田由紀氏は、「今の日本の教育は、授業時間増といった量的な「改革」でもって何かが良くなるような状況にはない。問題は量ではなく質なのだ」と言っている。