選挙でリーダーを選ぶのは民主主義の社会では常識ではないのか

amamu2007-06-04

 教育再生会議第2次報告で、本当に教育は再生するのか、教育の魂の息の根が止まってしまうのではないかという主旨で、第2次報告の問題点をすでに指摘したけれど、「地域、世界に貢献する大学・大学院の再生―徹底した大学・大学院改革」という項目のところに、次のような内容が書かれていて驚いた。

 人事給与システムの抜本的改革(大学全体の経営に関することは教授会に任せず、学長のリーダーシップにより意思決定を行う。学長選挙を取りやめるなど、学長選考会議による学長の実質的な決定を行うこととする)

 人事給与システムの抜本的改革と、「大学全体の経営に関することは教授会に任せず、学長のリーダーシップにより意思決定を行う。学長選挙を取りやめるなど、学長選考会議による学長の実質的な決定を行うこととする」という叙述との関係がどうなっているのかよくわからないが、それにもまして、なぜ選挙を廃止するのかわからない。
 私は高校教員を長年やってきているけれど、私が行使している教育権は、まがりなりにも教育の専門家として、不断に努力を積み重ね、研鑽を積むことはもちろん、一人ひとりの親権としての教育権が束ねられ、それが委託されて、そのもとに教育権を行使して、子どもたちの教育活動にあたっているつもりだ。教育権も発揮するし、子どもたちに対してはリーダーシップも発揮するが、批判も浴びる。
 また、集団とリーダーの関係だが、私の学校のクラスには委員長がいて、生徒によって選挙で選ばれるが、まずいことがあれば、リコールされる。
 生徒会活動の生徒会役員も同様だ。
 学校の校長もそうである。教職員から支持があり、管理職としての権限を行使するが、まずいことがあれば、リコールされてしかるべきだ。
 言うまでもなく、政治家も同様だ。選挙で支持を確認するし、まずいことがあれば、国民の審判を受ける。民主的社会や民主的教育の中では当然のことと思ってきたが、教育再生会議の第2次報告は、学長選挙を止めなさいと言っているのだから、教育再生会議の方々にとっては、どうやらそうでもないらしい。
 そもそも権力というものは、腐敗するものだ。その腐敗防止のために、人間が知恵をしぼってきたのが、民意を問うということであり、そのひとつが選挙という投票システムである。それがなければ独裁だろう。
 一人ひとりの意見を聞くというのは、民主社会や民主教育の常識的な手続き論であると普通に考えてきたが、こうした考えをかなぐり捨てようとしているのが、いまの日本の悲しい現実であり、それで教育が再生されるとは到底考えられない。
 教育再生会議の考える教育の「再生」とは何なのだろうか。
 戦前の「教育」の復活か。
 と、こう書いてきてわかったことが、安倍首相の言う「戦後レジームからの脱却」の意味である。
 戦後の、憲法教育基本法体制を「戦後レジーム」と呼び、そこからの脱却が目標であるならば、安倍首相の政治姿勢は、反憲法、反教育基本法とならざるをえない。そこで教育基本法を改悪したわけだ。
 そうであるならば、やはり明確に異を唱えねばなるまい。