外国語をマスターするということがどういうことなのかわかりにくい私たちの環境

 私の元同僚は、英語を母語とし、ドイツ語の教師を長年勤め、また現在も教えているくらいだから、ドイツ語をマスターしている。オーストラリアで合気道と出会い、日本に来てからは、日本語をマスターし、その他にも、おそらくオランダ語ギリシャ語をかじったりと、言語が好きな人間であることに間違いはない。けれど、言語オタクのような雰囲気は微塵もない。政治的な人間でもないと勝手に推測しているが、今回のオーストラリア選挙結果を、環境問題の視点から歓迎している。また、合気道をやったり、アブセイリングやブッシュウォーキングのようなアウトドアも好きだし、大型のオートバイにも乗る。私がシンガポールに二回行って面白かったという話をすると、彼がシンガポールに出かけたのは、リークワンユーが実権を握る前のことだったからひどかったという話や、ドイツに行ったのはベルリンの壁が崩壊する前のことだったから、今度ドイツを再訪したいとか、守備範囲が広い。つまり、きわめてバランス感覚のある、教養人、人格者なのである。
 何がいいたいかというと、たとえば、こういう叔父さんを持ったとすれば、自分も外国語をやってみようかなという気持ちになるかもしれないということだ。
 オーストラリア人の彼は、当然ダウンアンダー(Down Under)から来たと言っている。たしかにオセアニアは、地理的にも、ヨーロッパから隔絶している。しかし、先住民アボリジナル(アボリジニ)を別にすれば、移民の歴史をもつオーストラリアは、イギリスやらドイツやら、フランスやらと、尻尾は残しているのだ。
 日本人の外国語下手は、日本国内に言語環境のないこと、必然性のないことだが、もう一つ理由をあげるとすれば、外国語をマスターするということがどういうことなのか、よくわかっていないということをあげなくてはならない。
 私の元同僚のような外国語をマスターし、外の世界のことをよく知っている叔父さんや叔母さんがいれば、自分もやってみようかなという気にもなるけれど、そんなことは少ないから、日本における外国語学習の抽象度は、ものすごく高い。
 私は、ずっと日本で育ったから、外国語を話す叔父さん・叔母さんなどもちろんいなかった。大学では英文科に所属したけれど、自分が外国に出かけるなんて夢にも思わなかった。小学校の頃は、絶対に外国になんか行くことはないだろうと確信していた。そもそも英語の教師になってからだって、外国や外国語は遠いのが日本の言語環境だ。
 今日のように、情報化社会、グローバル社会と言われながら、想像力の落ちている日本人にとって、外国語学習への動機が低くなっているのは大変残念なことだが、日本人の外国語下手は、大人に、よりよい具体例がないというのが、一つの理由ではないのかと私は推測している。
 具体例がなければ、想像すらできなくても、何らそれは不思議なことではない。
 車がある家に生まれた子どもは、親の運転で、車に乗ることは当たり前のことになるだろう。自分もいつか車を運転するようになるのだろうと漠然とであれ、思うに違いない。そして実際、その子どもが成長したときには、車に乗れるようになるし、日常的に乗るようになるだろう。
 車のない国に生まれた子どもは、車に乗ることはない。自分もいつか車に乗るだろうなんて、想像だにしない。そして実際に、乗れるようにならないし、乗ることもない。
 この車の例を外国語に置きかえるならば、私の元同僚の環境は前者で、私の環境は後者である。
 私は、外国語の必要のない国に生まれ、外国語が話されるような環境で育ったことはない。自分もいつか外国語を話すようになるだろうなんて、子どものときは夢にも思わなかった。そして、高校時代はガリガリと英語購読をやったけれど、英文科の大学生であったときですら、話せるようにならなかったし、ほとんど話したこともない。それでも、今は曲がりなりにも英語を話す。何故か。それは、英語教師になってからというもの、不自然に無理をしてきたからだ。また、元同僚のように多言語を話す人たちの生き方にも影響を受けてきたからだ。やる気になれば、別の言語をやれる自信もある、というかイメージがもてる。だから、外国語をマスターするとはどういうことなのか知るために、日本人には、外国語を実際にマスターしたことのある叔父さん、叔母さんが必要なのである。
 外国語学習における言語環境について、私は、こんな風にも、変なアナロジーで考えている。