ご飯は偉大だ

炊飯器

 子どもの頃から食生活はご飯が中心だったから、私の場合、ご飯が食べられないと落ち着かない。Randy Newmanの歌にもあるように、"eatin' rice all day"である。毎日ご飯を食べなくても平気だが、ご飯が食べられない環境に置かれるとなると耐えがたい。海外滞在のときは現地調達主義をモットーにしてきたけれど、私が行くようなところは最近は海外でも日本食があるから我慢する必要もない。
 これはもう30年以上も前の、大昔の話。かけだし英語教師になりたての頃、英語研修でサンフランシスコに住み始めたとき、食生活の中心にご飯がないと耐えられないと感じた私はパートナーと一緒に炊飯器を買いにチャイナタウンに出かけた。
 69ドルの安物の東芝の炊飯器を、まだ使い慣れていなかったクレジットカードで買おうとしたときに、店の店員に96ドルと鏡文字的な数字を書かれて、危うくだまされそうになったことがある。声を荒げて抗議をして、ようやく解決をつけたのだった。あの店員はイタリア系だったか。
 今ではパン食は嫌いではないけれど、当時の日本のパンのレベルは低かった。子ども時代には、塩味の白米の握り飯以外には、お店でコッペパンにバターを塗ってもらって牛乳で食べたり、夏の市営プールの水泳帰りに少し震えながら食べた餡ドーナツなどは、格別においしく味わった思い出があるが、パサパサのパンは美味しくなかった。
 ところがサンフランシスコで味わった初めての海外のフランスパンと赤ワインは、冷めているにもかかわらず、日本の温かいご飯とお味噌汁くらいに美味しく、これはこれで偉大であると認識した。すなわち、それぞれの社会には、それぞれにおいしいものがあり、知らない者が相手の食生活を舐めてはいけないということだ。
 温かいご飯に、梅干しと海苔、そして漬物。子ども時代に覚えた味がなんといってもベーシックス。基本である。もちろん、韓国のり、キムチもいい。
 うちで今使っている土鍋の炊飯器は、それほど味もよくないのに、ご飯が土鍋にこびりつき、一膳くらい無駄になってしまう。洗い物をするたびに、罪悪感を覚え、この炊飯器はその意味で耐え難い。
 それで今回、銅釜のタイプを購入してみた。これは結構おいしい。
 炊き立てのご飯が食べられるのは、この上ない喜びである。
 炊き立てのご飯は偉大である。