膠着語である日本語の特質に合致した宮澤賢治の「雨ニモマケズ」

宮澤賢治に聞く

 井上ひさしさんの「宮澤賢治に聞く (文春文庫)」を読んでいたら、「日本の、すぐれた詩人がみなそうであるように、宮澤賢治もまた第一級の日本語の使い手であった、ということに思い当ったのは、昨年(一九七六年)の春、オーストラリア国立大学で<客員教授>という肩書で高級文化乞食をしていたときである」という書き出しで始まる「日本語使いの達人としての賢治」という面白い一文に出会った。
 井上ひさしさんが「オーストラリア国立大学で<客員教授>という肩書」で「高級文化乞食」をされていたということは初耳だった。そのことにも多少驚いたが、「顔なじみの日本語学科四年生」の"That is the kind of man I want to be; May he not be overcome by the rain,"という「雨ニモマケズ」の試訳に対して、「That is the kind of manでは音が硬い。That is the sort of manがよかろう」とか、「May he not be overcome by the rainは少し強すぎる。May he not give in to the rainにしたらどうだろうか」と井上ひさしさんが「進言」されたことにも驚いた。
 けれども、そうしたことが、ここで言いたいことではない。
 ひとつは、「<この雨ニモマケズを日本語以外のことばに移しかえるのは不可能なのではないか>」「この詩を手帖に書きつけていたとき賢治の心の中にあった祈りは、異国のことばに移しかえたとたんきれいに消え失せてしまうのではないか」という井上ひさしさんの指摘と、よく知られている日本語の特徴と、「雨ニモマケズ」がそうした日本語の特徴に大変合致した詩になっているという指摘である。

 

 日本語は、ごぞんじのように膠着語の一種である。結論(動詞といった方がより正確か)は最後の最後までとっておき、べたべたべたべたことばを並べて行ってもなんの不都合もない。漫才師のルーティンのひとつである(中略)ギャグは膠着語としての日本語の特筆をよく示すものであるといえるが、雨ニモマケズもこれと同じ手を用いている。この詩を日本語で読む者は、読めば読むほど謎に包まれて行く。(雨にも風にも雪にも夏の暑さにもまけない丈夫な男が、一日に玄米四合と味噌とすこしの野菜をたべて、どうしたのか。滑んだのか。宝くじにでも当ったのか。それとも車に轢かれて死んだのか)と読者は頭のどこかで考えながらさらに先へ読み進む。(東奔し西走してどうしたのだ。こんな仏様のような男が、かつて居たというのか、居たが死んでしまったというのか。でなければ女にでもだまされたというのか。ああ、じれったい)読者の忍耐がほとんど頂点に達したとき、あるいはむしろそのときを待ちかまえていたように、この詩の真の主格が示される。



 サウイフモノニ
 ワタシハナリタイ



 読者は賢治が祈っていたことを知り、そして彼の祈りに加わるわけであるが、これはまことに巧者な技術である。日本語の、膠着語としての特質と、途中における仮の主人公を透明なままにしておくことのできる性質(日本語では性別、単複・人称を動詞や形容詞などで示す必要がない。だから仮の主格の正体が、男か女か、ひとりかふたり以上か、一人称か二人称か三人称かばれないですむのであるが)を、この詩は完璧に使いこなしている。


 長い引用で申し訳ないが、こうしたことをさらりと書いてしまう井上ひさしさんを俺は尊敬せざるをえない。