「多面体としての人間」

この人から受け継ぐもの



 井上ひさしさんの宮澤賢治*1で繰り返し言われていることのひとつは、賢治自身が宗教者であり、科学者であり、芸術家であるということだ*2




 あれこれ引用したいのだが、長くなるので、たとえば、「この人から受け継ぐもの」所収の「ユートピアを求めて ー宮澤賢治の歩んだ道ー」に、次のようにある。
 

 これは賢治が羅須地人協会でしきりにいっていることですが、百姓はただ土を耕しているだけではだめであって、同時に芸術家でなければいけない。さらに同時に宗教家でも科学者でもなければいけない。一人の人間は少なくともその四つぐらいを兼ね備えないと人間として楽しく一生を遅れないということを、手を替え、品を替えいっています。

 この少しあとのほうで、宮澤賢治は、作家であり、教育者であり、農民運動家であり、熱心な日蓮宗の信者であり、夢見る人でありというようなことを書かれていることも一例だが、井上ひさしさん自身、この賢治の多面性について、ご自分が書かれたあちこちの賢治論の中で触れられている*3

 そして、たとえば、「宮澤賢治に聞く」所収の「カナシイ夜は『賢治全集』」では、次のように井上ひさしさんは書いている。

 

 しかも彼の場合、宗教者賢治と科学者賢治とのたがいがツノを突き合わせ足をひっぱり合って泥仕合、というふうにはならなかった。それどころか霊感を科学的文脈で鍛えてだれもがわかるものにし、科学お得意の冷えた分析的な見方を天啓で熱くした。そこに稔ったのが彼の作品群である。
 彼の作品では例外なく、なんだか奇妙に熱い飛躍と、なんともいえない奇体な冷静さとが同居しており、この相反するものが二本の柱となって両極となるのだから、その構造はほとんど全宇宙を覆ってしまうほど巨大である。こんな力業ができるのも詩人のなかで宗教と科学とがたがいにたえず練磨し合っているからこそだろう。

 井上ひさしさんの賢治論を読めば読むほど、賢治の作品を読まねばなるまいという気にさせられてくる。

  

*1:正確には宮澤賢治についての書き物、エッセイということで、「宮澤賢治」論という題名で書かれているものではない。ここでは勝手ながら、総括的に「宮澤賢治論」とした。

*2:井上ひさしさんは、宮澤賢治自身が「輝く多面体」という表現を用いていると紹介されている。

*3:たとえば、「講演 賢治の世界」、「賢治が用意した答え」など。「賢治の祈り」も、「輝く多面体」について触れられている。