「価値観すり合わせ 第三の道を開く 対話の言葉磨こう」

amamu2012-07-13

 7月5日付の朝日新聞の「インタビュー」の欄で、「政治と言葉」について、劇作家の平田オリザさんのインタビューが載っていた。
 「会話」と「対話」は違うものですかという質問に対して、平田さんは、「会話」は「親しい人同士のおしゃべり」、「対話」は「異なる価値観などすり合わせる行為」と、「ダイアローグ(対話)とカンバセーション(会話)は明確に違います」と答えている。
 これはとてもわかる話だ。
 興味深いのは、平田さんの「しかし日本語の辞書では『【対話】向かい合って話をすること』などとされ、区別がない」という指摘だ。
 これが何故なのかという分析が大事だ。平田さんは次のように言っている。

 日本語は、閉じた集団の中であいまいに合意を達成するのにとても優れた言葉です。日本文化の一部ですから、悪い点ばかりではない。近代化以前の日本は、極端に人口流動性の低い社会でした。狭く閉じたムラ社会では、知り合い同士でいかにうまくやっていくかだけを考えればいいから、同化を促す『会話』のための言葉が発達し、違いを見つけてすり合わせる『対話』の言葉は生まれませんでした。


 日本社会のことを"We're OK; therefore I'm OK"-societyと定義している日本人の英語の使い手がいて、私もよく借用した。これに対して西洋社会一般をどう定義するかというと、"I'm OK; therefore I'm OK"-societyである。俗流だろうが、その土台には農耕社会の決まりがあるといえば、説得力も増したものだ。
 あまりに単純だという誹りを免れないかもしれないが、つまり、日本社会は、良くも悪くも集団主義で、他人に気を配る。仲間が満足しなければ、自分も満足できない*1ステレオタイプでいえば、出る杭は打たれる。ところが、西洋社会は、あくまでも個人優先。individualという言葉は、「個人」「個人の」という意味だが、divide(「分ける」)が語幹に入っていることからもわかるように、「これ以上分けられない」という意味だ。それで、その意味が文明開化の時代に我々の先達にはよくわからなかった。
 先ほどのsocietyにしても、このindividualにしても、日本が蘭学から英学に切り替えていた頃、福沢諭吉らの啓蒙思想家たちは、いかに訳すべきか、大いに悩んだ言葉の一例に他ならない。
 そもそも福澤が組織した三田演説会や、明六社演説会がおこなわれた文明開化のころは、日本語でspeechができるかという根本問題を抱えた時期であったのだ。平田さんも、「言葉というのは要求がなければつくられません。例えば演説や裁判のための日本語は、明治に入り、近代国家として必要になったので人為的につくられました。しかし対話のための日本語はいまだにつくられていない」と言っている。
 日本の近代化の時代に大量に翻訳はしたけれど、書き言葉もそうだが、とりわけ話し言葉は、まだまだ自分たちの言葉になりきっていないということなのだろう*2
 平田さんは、「フランス語や英語が150年から200年かけて行った言語の近代化、国語の統一という難事業」を「近代日本語」は「40〜50年でやってしまった」ことを「すごいこと」と評価しつつ、「当然、積み残しや取りこぼしがでてくる」と述べて、次のように言っている。

 ドイツ、イタリアも日本とほぼ同じ頃、地方政府を統一し、近代化を急ぎます。そうすると、対話は余計なんですよ、面倒くさいから。効率が優先されると対話がおろそかになる。僕はそれが、ドイツ、イタリアのファシズムや、日本の超国家主義の台頭を許したと思っています。対話は、民主主義を育てる大前提です。

 
 もちろんファシズム台頭の要因はそればかりじゃないだろうが、ここで平田さんは、言葉と政治の問題に限定して狭義に言っているのだろうが、この平田さんの指摘は、一面を深く言い当てていると思う。

 「対話と討論」は、「民主主義」の大前提であることは間違いない。
 そして、「価値観をすり合わせることによってお互いが変わり、新しい第三の価値観とでも呼ぶべきものをつくりあげること」が目標になることも間違いない。
 現在の日本の政治状況は、たいへん寂しいことに、「ひとりごと」(モノローグ)状態。それで、「寂しい」なんて、のんびりしていられないのが現状である。
 リーダーシップに求められる能力として、「論理的にしゃべる」とか「クリティカルシンキング(批判的思考)」とか、「欧米直輸入の手法」より、「論理的にしゃべれない人たちの気持ちをくみ取る能力の方が大事なのではないでしょうか」と語る平田さんの意見も興味深かった。
 日本の政治状況が、そこまで閉塞していることのあらわれとも言えるのではないかと思った。

*1:"We're OK; therefore I'm OK"については、最近はselfishな傾向も強く、そうとも言えなくなってきているが。

*2:この辺の翻訳事情の問題は、柳父章さんを読まなければいけないのだろう。