「ヒューマニズム考 人間であること」を読んだ

ヒューマニズム考

 渡辺一夫著「ヒューマニズム考―人間であること (1973年) (講談社現代新書)」を読んだ。
 この講談社現代新書は、1973年のものだが、初版は1964年に書かれたもののようだ。
 フランス文学者の渡辺一夫によって書かれた本はこれまで全く読んだことがなかったが、本書をたいへん面白く読んだ。

 渡辺一夫さんがこの本で述べていることは、「ヒューマニズム」(humanism)という外来語は広く日本で使われているが、そのくせよくわからない。英語には、humanitarianism(「人道主義」「博愛主義」)ということばがあるが、「ヒューマニズム」と混同されているのではないかと思うことがよくある。「ヒューマニズム」はわかるようでわからないという理由から、フランス文学者の渡辺一夫さんは本書で「ユマニスム」というフランス語を用いているのだが、この「ユマニスム」は、ヨーロッパのルネサンス期にはなかったという。「だいたい十九世紀の終わりごろに、ドイツの史学者たちが、ルネサンス期文化に見られた一つの顕著な傾向・思潮をフマニスムスhumanismusと呼んだときから、フランス語でユマニスム、英語でヒューマニズムということばが用いられるようになった」のだと。また、「ユマニスムという語は、ルネサンス期にはありませんでしたが、ユマニストhumaniste(ヒューマニスト)ということばは、十六世紀の後半には、明らかにフランスの作家によって用いられている」。この場合の意味は、「古典語・古典文学の研究(愛好)者」であり、とくに「神学者」に対比されていたとのことだ。
 中世の学問の中心は神学であったが、この神学が「議論のための議論」になってしまい、「真実を求めることよりも、論敵を打ち負かすことに喜びと誇りを感じるような学者も出て」きた。
 ルネサンス期のパリも同様で、「有名な神学者たちが、議論のための議論にむちゅうになり、あまり些末な論争に終始しているのを見聞した、若い研究者の中から」、次の「問いが出された」と。

 それはキリストとなんの関係があるのか(Quid heac ad Christum?)


 渡辺一夫さんの本書には、この「それはキリストとなんの関係があるのか」という問いが何度も紹介されているのだが、これは実に痛快である。
 と同時に、この問いは、さまざまな迫害を受けながら発せられた問いであることは忘れてはならない。
 けれども、例外なく我々はこのラディカルな問いに学ぶべきである。
 たとえば、それが現在の教育なら、「それは教育となんの関係があるのか」。
 たとえば、それが現在の日本の政治状況なら、「それは政治となんの関係があるのか」。
 たとえば、それが進歩なら、「それは進歩となんの関係があるのか」。
 たとえば、それが安全性なら、「それは安全性となんの関係があるのか」。
 たとえば、それが幸福追求なら、「それは幸福追求となんの関係があるのか」という問いかけや呼びかけ、つぶやきになるだろう。
 
 渡辺一夫さんは「ルネサンス期のユマニスムのあり方」を「私見」と断って次のように書いている。


 ユマニスムとは、堂々たる体系をもった哲学理論でもなく、尖鋭な思想でもないようである。ユマニスムとは、わたしたちがなにをするときでも、なにを考えるときでも、かならず、わたしたちの行為や思考に加味されていてほしい態度のように思う。


 渡辺一夫さんは、以下のように、榎一雄堀米庸三編著「標準高等世界史」を引用しつつ、「ヒューマニズムということばだけを使わないで、『人間主義』という字の別な読み方として、『人間主義 ヒューマニズム』とふりがながついていることです。そして、さらに、これを補足するかのようにかっこに入れて『(人文主義)』としてあります。両先生も、訳語の選定に苦心しておられることがわかります」と書いている。

 ルネサンスの精神は、人間主義ヒューマニズム)<人文主義>の一語に要約される。それは、この世を仮のものと見る神中心の中世の考えとは反対に、ありのままに人間と自然を見、生きる喜びをそのまま肯定する、現世的、人間中心的な態度である。(「標準高等世界史」)


 このあと、オランダ人のエラスムス、ドイツ人のルターの話。フランソワ=ラブレー、ジャン=カルヴァンの話。「正統と異端」の話も面白い。
 とくに、カルヴァンの評価を含んでカステリヨンが「我々が光明を知ったのちに、このような暗闇にふたたび陥らねばならなくなったことを、後世の人々は理解できないだろう」と述べたことは、たしかに「短いけれども意味の深い文章」だと思う。それは、「カステリヨンが新教徒(カルヴァン派)として終始したことと、カルヴァンに向かってすら、『それはキリストとなんの関係があるのか。』と問いただした」からに他ならない。

 それぞれの「痴愚」に対して、「それはキリストとなんの関係があるのか」「それは人間であることとなんの関係があるのか」という問いを発し続けることの重要性は言うまでもない。いかなる分野でも、こうした根源的な問いは有効である。

 アメリカ大陸や東洋への探検旅行の報告を読んでいた懐疑主義モンテーニュの話もたいへん面白かった。
 フランス語のsceptique、scepticismeのギリシア語源はskeptomaiで、その本義は「検討する、調査する、探求する」ということだと。「懐疑主義は、『わからぬ、知らぬ。』とつぶやくことではなくて、眼前にあるものを十分に検討して、より正しいものを探求することを意味します」と渡辺一夫さんは書いている。

 「絶対主義への疑問」ということでは、「相対主義的思考の発生」「相対主義的思考の発達」という話は大変ためになる指摘である。
 

 ゆがんでいるものや本末を転倒しているものに対して、「それはメルクゥリウス(キリスト)となんの関係があるのか。」と問いかけることは、ゆがんだものや本末を転倒したものが、時代とともに、新しい扮装をして人間世界に現れ続ける以上(またそれが人間世界の必然である以上)中止されてはなりますまいし、人間の名に値する人間がいるかぎり、中止されるはずもないのです。

 モンテーニュが感じたことは、キリスト教徒であるヨーロッパ人のほうが、アメリカ大陸の土着民たちに比べて、かならずしもキリスト教徒的ではないということでした。こうした考察は、キリスト教国民の絶対性というものに疑問をいだかせることとなりますし、ひいては、キリスト教そのものの絶対性について、人々が疑惑をもつようになる機縁となるものといってよいでしょう。


 キリスト教を知らず、その洗礼を受けないで平気で生きてきた、人間によく似た生物が、キリスト教徒よりも温和で誠実で、正義感をもっているという点では、キリスト教徒以上であるというようなことを、当時の多くの人々は、夢にも考えたことがなかったにちがいありません。

   
 渡辺一夫さんの「ヒューマニズム考」から学ぶことは多いので、明日、続きを書くことにしたい。