鳥飼玖美子さんの「国際共通語としての英語」を読んだ

国際共通語としての英語

 鳥飼玖美子さんの「国際共通語としての英語 (講談社現代新書)」を読んだ。
 俺が若いときの鳥飼玖美子さんは同時通訳者として有名だったが、どちらかというと言語社会学や言語思想の視点からモノを言う方ではないと勝手に俺は思っていた。
 そうした観察はそれほど間違っていないと思っているのだが、近年出されている本を読ませていただくと、言語社会学や言語思想の問題も避けずに研究されているという印象をもち始めていた。
 もちろん英語学習と英語教育が大前提にあるのだが、注釈の参考文献をみると、本書も、言語帝国主義論も避けずに踏まえて考察されていることが注目される。
 「通じる英語とは何か」「発信するための英語」「「グローバル時代の英語」が意味するもの」「国際共通語としての英語と学校教育」「英語教育で文化をどう扱うか」「国際英語は動機づけになるか」「これからの英語と私たちーまとめに代えて」という「章立て」は、どれも重要な論点である。
 鳥飼さんが書かれているこれらの指摘は、論点としてそれほど新しいものではなく、これまでも繰り返し指摘されてきた点であるように思うが、それが、現実のありようと、鳥飼さんの個人的体験も含めて平易に簡潔に書かれているところが好印象である。
 現実的なありようでいえば、「自分自身が主体的に自主的に何かをすること」「自主独立の精神」が重要であること、「共通語としてのコア」の研究から学習項目の優先順位を考えること、「母語話者の規範に準じる必要はない」という指摘、「学ぶ時はきちんと学ぶ、使う時には恐れず大胆に」、目指すべきは「母語が基盤となった豊かな言語力」「話す内容を生み出す思考力、異質性を排除することなく対人関係を構築する力、ものごとを批判的に読み解く力、そして自分の思考を表現するための発信力」であること等が現状を適切に反映していると思った。
 とくに私が興味深かったのは、欧州評議会の「複合言語主義」(plurilinguralism)やMLA(Modern Language Association of America)の紹介である。後者では、「母語話者を目指すのは無理な到達目標である」「二つの言語の間で機能できる能力を重視すべき」というのが、現実のありようを反映していて面白い内容だった。
 これは鳥飼さんの指摘ではないが、おそらくそれは、citizenship educationとも関連があり、それが土台になっているのではないだろうか。「人権」「民主主義」「対等・平等」「対話と討論」を求める場合、いかなる言語学習、言語教育、言語政策が求められるのかという視点である。
 本書の「あとがき」が書かれたのが、2011年3月21日。「このような非常事態に、英語の話など、という気がしないではないのですが」と「あとがき」で鳥飼さんは誠実に書かれているのだが、本書でも指摘されているように、「何のために」「どのような」英語を教えるのかという根本問題に対する共通認識・合意形成をつくりあげる課題に一歩でも近づくために、本書の問題提起は有効であるように思う。ただし、英語教育を前提にした場合という限定つきの話ではあるけれど。
 そして、それは、これからの日本社会のあり方とも密接に関係しているテーマであるに違いない。