黒澤明監督の「用心棒」と「椿三十郎」なら、俺は圧倒的に「椿三十郎」が好きだった。
が、「用心棒」もいい。
なにしろ三船敏郎が演じる桑畑三十郎のキャラクターがいいのだ。
桑畑三十郎を動かしている行動原理は、金ではない。それは、明確に映画の中で語られる。
それは女でもない。それも映画の中で明確に語られる。
それはいわゆる名誉でもない。名誉なんて恥ずかしい、そうした気持ちが三十郎にはあるに違いない。
では、正義か。義憤か。
それも少しはあるだろう。
だが、桑畑三十郎は単純な正義漢ではない。はにかみ屋であるし、照れ屋でもある。
それでいて、桑畑三十郎は負けない。不屈の精神をもっているし、それを実現できる力量もある。
そこがいいのだ。
問題を解決したあとの桑畑三十郎の潔さ。
そこが「用心棒」を何度でも観たくなる理由だ。
もうひとつ。難題がある。
それは刀の問題だ。
「用心棒」も「椿三十郎」も映画の面白さ満載の作品であることに違いはないが、それは「殺陣の魅力」にあるのではない。
もちろん「殺陣の魅力」もここぞというときに表現されているのだが、それが中心ではない。それは「用心棒」と「椿三十郎」を繰り返し観ればわかるだろう。
次作の「椿三十郎」の中の、いい刀は鞘に収まっているものですという奥方の思想が見事にそのことを表現している。三十郎もその思想に学んでいる。それは最後の場面で若侍たちに残す言葉に象徴されている。
その意味で、「用心棒」も「椿三十郎」も娯楽活劇映画でありながら、理性の力を映画全体で訴えていると思う。
今回買った「用心棒」の中の次の黒澤明監督のことばがそのことを明確に語っている。
これ(「用心棒」)がヒットした理由としてほかの映画会社では、殺陣の魅力だと言っている。
これは僕に言わせればとんでもない話で、この作品の魅力は、あの用心棒になった男の性格と、その性格から発する一種面白い行動にある。チャンバラにしたって斬る必要が出たから斬ったのでムヤミに刀を振りまわしたわけではない。
黒澤明はこう書く前段で「これは早く言えば日頃ヤクザや不良の徒を憎みながら何もできないでいる我々の気持ちだと思う。我々は心ひそかに彼らを懲らしめてやりたいと考えながら力が弱いためにそれができない。それをこの主人公が代わってやってくれたので思わず胸につかえたものがいっぺんに下がる」と書いている。
つまり、「用心棒」には、力の弱いものがどのようにして理想を実現できるのかという深い問題が横たわっているのだ。
それは「用心棒」の中でさまざまなキャラクターとして表現されている庶民の弱さ、さらには庶民の間抜けさ加減からもわかることだ。