2014年衆議院選挙結果について思う

amamu2014-12-16

 今回の選挙の結果をみて、一人の国民として、いろいろと考えているが、考えがまとまらない。
 なぜかといえば、いろいろな疑問がわいてきて仕方がないからだ。
 これは格好をつけてレトリックで言っているわけではないので、それらの疑問にたいして自分自身の答えがあるわけではない。
 正直なところ、あの「風に吹かれて」の唄のように、答えは舞っていて、つかめそうでつかめない、いらだちがあるのである。
 いくつかそうしたクエスチョンを並べてみる。

 第一に、国会解散の理由の問題。解散の権限の問題を考えなくてよいのか。内閣総理大臣による、こうした解散のしかたでよいのか。
 第二に、1票の格差の問題。近年だされている最高裁違憲判決。それはひとつの判決だけではない。立て続けに「違憲状態」と判断されている判決に対する改善・是正をせずにおこなわれている選挙をどう考えるべきか。
 第三に、「この道しかない」と安倍首相はいわれるが、本当に「この道」しかないのか。もっといえば、「この道」でよいのか。
 また、経済、経済というマジックワードで眠り込まされている感があるけれども、そもそも、これまでのような旧態依然たる考え方でよいのか。
 その象徴的な問題提起と現実が福島の原発の大事故・大惨事ではなかったのか。
 私たちには「新しい考え方」が必要なのではないか。時代は、まやかしではない「新しい考え方」を必要としているのではないのか。
 また、集団的自衛権閣議決定の問題。
 ここにも「新しい考え方」が必要という声が聞こえる気がしてならないのだが、そうではないのか。今回の沖縄の4つのすべての選挙区での選挙結果が象徴的といえるのではないか。そうした声が上がっているのだが、全体として、そうした声に耳を傾けようとしているようには思えない。それでよいのか。
 そもそも、経済、経済というが、共同体全体の底上げや共同体全体の向上という課題の優先順位を上げずに、経済格差を是正しようと努力せずに、大企業や金持ち優遇で、実態経済はよくなるのか。
 大企業や富裕層が豊かになれば貧困層も豊かになるという、トリクルダウンという「おこぼれ」は果たしてやってくるのか。
 それは幻想ではないのか。経済格差が広がるだけではないのか。
 最後に、今回の選挙の投票率は、52.66%で、最低の投票率だそうだ。
 その理由はいろいろとあるのだろう。棄権も自己表現であるという理屈もあるのだろう。しかしながら、有権者の二人にひとりしか投票していない現実・事実をどのように考えたらよいのだろうか。
 投票権参政権は、大昔から与えられたものではない。それは歴史をふりかえってみれば明らかである。投票権参政権は、明治時代の中期、曲がりなりにも大日本帝国憲法という憲法が制定された頃に、ようやく、全人口の1%とか2%のものが有権者として認められた。
 当時は、国民という概念ではなく、臣民という概念であったが、なぜ全人口の1%とか2%なのか。
 幼児や子どもはもちろん全人口に含まれるが、有権者に含まれるはずもない。全人口の中には大人がいたはずだが、なぜ1%とか2%の有権者だったのか。
 それは、第一に女性は一人も含まれず、第二に男性うちの多くの貧乏人も含まれていなかったからだ。したがって日本の有権者は全人口の1%とか2%という数字から出発した。
 資料をみれば、戦後1946年に、有権者はようやく全人口の48%を占めることになる。
 いうまでもなく、これは女性の大人が含まれるようになったことと、貧乏人の男性にも投票権が与えられるようになったからだ。

 それでは今回の、戦後最低といわれる投票率52.66%をどのように考えたらよいのか。
 少なくとも、歴史に逆行していることは明らかではないのか。
 (以下は単にレトリックとして書くだけのことだが、この数字は、有権者の全員が投票できたとして、いつごろの時代の有権者数にあたることになるのだろうか。また香港の人たちは、投票権が与えられているのに、半数の有権者が投票していない今回の政治行動をどのように考えられるだろうか)
 これは第二の問題にも戻ることになるのだが、小選挙区制と比例代表制という選挙制度の問題もある。今回も小選挙区制と比例代表制という現行選挙制度を通過した結果としての、議員数である。違う選挙制度であれば、どのような選挙結果になるのだろうか。
 選挙制度は固定的なものではない。選挙制度も、固定的なものと考えてはならない。
 「違憲状態」といううえに、小選挙区制ゆえの死票はどれほどのものになるのか。候補者が選べない“復活”当選の合理性はどう考えたらよいのか。
 政治は自己目的ではない。国民の命や幸福が重要であり、政治はそのための手段に過ぎない。これは18世紀のアメリカ独立宣言の思想である。

 こう書いてきて、ひとつ思うことは、「新しい考え方」を求めたいという自分自身の気持ちである。
 原発事故や平和の問題。外交の問題。暮らしの問題。いろいろと考えをめぐらせばめぐらすほど、私たちには「新しい考え方」が必要なのではないかという、自分の気持ちである。
 若い世代を考えるに、明るい未来をつくり、引き継いでもらわなければいけない。
 世界の流れは、選挙権行使の年齢は、20歳から18歳になってきている。
 いろいろな意味で「新しい考え方」が求められているのに、それにふさわしい選挙結果だったのかという点で、忸怩たる思いがあるというのが私の率直な気持ちである。
 こうした結果が出たいま、これから私たちを待ち受けているものは、果たして何か。それは私たちの幸せにつながる道なのか。考え続けなければならないことだけは明らかだ。
 そして、はたして「この道」でよいのか、総じて、これでよいのか、それらが試されるときが来ることだけは確かなことだ。