朝日新聞の「耕論」という意見欄の今回のテーマが「終のすみか」だった。
養老猛司さんの意見が面白かった。
すでに葬式も済ませ、戒名ももらっています。5歳で父と死別し、約3千体の遺体を見てきた私にとって、死は考えても仕方のないもの。致死率100%、どうやっても逃れられない。しかも、告別式の日取りを知ることさえできないのですから。ところが、90歳になっても「死にたくない」なんて言う老人がいます。死にたくないとは、いまのまま変わりたくないということになります。
生物である人間は日々、寝ている間も変化するのが当たり前。最近の研究では、人間の身体をつくる分子は7年ですべて入れ替わる、と言われています。すると、私なんて11回も替わったことになる。それでも同じ人間と言えるのか、と思うほどです。
鎌倉時代初期の文学者、鴨長明は「方丈記」で〈ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず〉と書きました。河を流れる水は絶えないが、決してもとのままではない。〈世中にある人と栖(すみか)と、またかくのごとし〉。人も住まいもまた変わり続けるのが常なのだ、と。つまりは、無常です。
ところが近代以降、自然を排して都市をつくる過程で、人間は意識であらゆるものをコントロールできる、と錯覚するようになりました。その結果、自意識が肥大して「私」が幅をきかせ、日本では家制度や共同体が壊れていきました。
親戚や地域の人間関係は面倒でも、暮らしを支える保険のようなものです。それが断ち切られた東京圏で単身世帯が増え、高齢者を介護する人手が足りなくなるのは必然でしょう。
かつて、私は「参勤交代の復活」を提唱したことがあります。田舎暮らしのススメです。俳人の松尾芭蕉も歌人でもある西行法師も晩年は放浪していました。
いま、多くの人が病院で生まれ、病院で死ぬということは、生きている間は「仮退院の患者」みたいなもの。どこに身を置いてもいいでしょう。終(つい)のすみかでなくても、1年に3カ月ぐらい都会を離れてみるのです。
光を浴び、土に触れ、風を感じる。刻々と変化する自然によって五感に刺激を与える。あるいは、人間がつくったものでないものに目を向けてみる。たとえば、雲。どうしてあんな形をしているのか。あるいは、葉っぱ。どうして、こんな形でこんなところについてるのか、と考えをめぐらせてみる。
すると、気づくはずです。自然のように、人間の意識ではどうにもならないものがあるんだ、と。そして、当たり前のことを思い出す。「今日という日は明日にはなくなる」。ならば、どこで最期を迎えるかはたいした問題ではない、と思うようになるでしょう。(聞き手・諸永裕司)
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