「自由な生活守る闘いの武器(小山内美江子さん)」

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 「敗戦を経て、社会が根底から問い直されていた70年前のきょう、日本国憲法が公布された」。
 以下、小山内美江子(脚本家)さんのメッセージ。

 安心しましたね。「戦争を放棄する」という憲法ができたんですから。これで人を殺したり殺されたりしなくていいんだと、ただただ、うれしく、涙が出ました。

 公布のときは16歳でした。実は女学校で憲法の全文をお勉強した覚えはないんです。学校の外でも大人たちは自分や子どもたちが食べていくことで精いっぱい。いま思えば、自分たちに都合のいい部分に心から喜んでいたのかもしれません。なにより戦争はしないし、結婚は2人の意思だけで決められる、と。

 「お国の決まり」が変わったことは、分かりました。お上じゃなく、自分で自分のことを考えなきゃいけないんだ、と。

 学校の先生はどうしていいか困ったと思います。急に社会で活躍する女性をつくれって言われて。

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 そういうなかで部活動が始まり、私は演劇部に入りました。子どもの頃によく歌舞伎を見ていて、演出志望でした。憲法ができた年は「勧進帳」。楽しかった。

 戦前は女の人がやりたいことをあきらめていた小説が多くて、戦争のない今の時代ならよかったのに、これが平和なのだ、と思いました。演劇部の活動から映画監督になりたいと思ったけれど、まだ男社会で、女性の進出は無理でした。それでスクリプター(記録係)になり、その後、脚本家として仕事をするようになりました。

 振り返って、私は憲法にそぐわないものは書いてこなかったつもりです。なかには、戦争体験をもとにしたものもあります。

 終戦前、横浜・鶴見で空襲に遭いました。一家で必死に逃げながら、焼夷(しょうい)弾を消しに行こうとする弟を、「死ぬよ! ダメ」と引き戻して。ふと気づくと、前の方で女の人が「かわいそうに」と泣きながら走っている。背中で赤ちゃんが亡くなっていました。図らずもお母さんの弾よけになってしまった。お母さんのあの泣き声は、今でも忘れられません。

 この体験を30年後、「加奈子」というドラマに盛り込みました。その中で、戦争が終わり、赤ちゃんの祖父は「誰が始めた戦争だ! もっと早く終わればこんなに多くの人が死なないで済んだんだ」と怒り狂います。

 物語の終わりは、1947年5月、憲法が施行されるときです。花火屋だった加奈子は、無事復員した職人たちと盛大に花火を打ち上げる。二度と戦争がないように、と多くの死者の願いも込めたナレーションを入れました。地味なドラマでしたけど、自分では代表作だと思っています。

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 「3年B組金八先生」のシリーズでは、憲法の条文を教え子たち30人が読みつなぐという場面を書きました。82年のフォークランド紛争で戦死者に16歳の少年兵がいたと聞いて、黙っていられませんでした。日本には憲法があるから、戦争で死ななくて済む。私自身が16歳のときから信じていることを言いたかったんです。

 スタッフは放送後に抗議の電話がくることも覚悟していたようなのですが、実際には「よかった」というものが多かった。でも、今はメディアの自己規制で書けないでしょうね。

 実生活で、丸刈りを強いる校則に対抗するのに憲法を持ち出したこともあります。中学入学で丸刈りの強制に悩む息子に「憲法には表現の自由というものがある。校則とケンカしたら、絶対に憲法が勝つ」と言いました。

 庶民は憲法の存在を、暮らしの断面を通して感じるのだと思います。小さな組織のしきたりや慣習が強くて、何かをできなかったり強いられたりする。それはおかしいと感じたとき、憲法によって闘う。憲法そのものが大事だから守るために闘うんじゃありません。丸刈りになりたくないから、生活を守りたいから、憲法を尊重してきたのだと思います。

 (聞き手・村上研志)

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 おさないみえこ 1930年生まれ。「3年B組金八先生」「翔(と)ぶが如(ごと)く」などの作品を手がける。カンボジアなどで支援活動する「JHP・学校をつくる会代表理事