国民のことはそっちのけ、これほどひどい解散もない

 英語教師としても不勉強の誹りは免れないが、俺は英語の教師だったから、専門的に政治を述べることはできない。
 だが、みずからの幸せもふくめて、国民が幸せになるために、一人の市民として、日本の政治と私たちの暮らしの豊かさについて考えてこざるえをえなかったし、考えてきたつもりだ。

 日本は、経済一流、政治二流といわれた時代があったけれど、いまの政治状況は、二流ではない。
 それ以下である。

 政治には権力抗争という側面がないではないが、政治がそれだけであってよいはずがない。
 憲法の精神にのっとり、国民の権利を守ることが政治と政治家の役目である。これが基本である。
 
 けれども、いまの政治は、俺の眼には、パワーポリティックス、サル山のボス争い*1くらいにしか映らない。
 国民の権利を考えるどころか、国民をだまそうとすることに躍起のようだ。だから、俺には、そんな政治家が、ペテン師や大根役者のように見えて仕方がない。

 今回の解散は安倍首相の身勝手な自己保身の「モリカケ」隠し解散というほかないが、私たちが忘れてはならない重要な争点は、つねに国家権力対国民の権利ということである。
 国民の権利がどう広がり、国民の暮らしがどのように豊かになるのかにこそ興味のある俺としては、マスコミが熱く報道している権力争いのボス抗争には全く興味がない。大体、立ち上がったばかりの小池新党を持ち上げ過ぎではないのか。おっちょこちょい民族にもほどがある。
 国家権力が大切なのではなく、国民の権利が重要である。そのために国家権力をしばるというのが、立憲主義に他ならない。それを敵視してきたのが、安倍首相である。
 憲法を守るべき首相が、憲法を敵視し続け、壊憲が悲願の首相であると言わざるをえない。
 アベノミックスというまやかしの経済政策で国民をだまし、国会で多数を握り、安保法制・秘密保護法と、国民の権利を抑圧する悪法を強行採決してきた。
 「男たちの悪だくみ」との名言を述べた昭恵夫人が名誉校長だったり、腹心の友・加計氏がからむ森友・加計学園が、まさに政治の私物化の象徴、国民の財産の私物化の象徴、教育の私物化の象徴に他ならない。疑惑は全く晴れていないにもかかわらず*2、さらに、きちんと説明するというみずからの約束も守らず、今回の自己都合の「モリカケ」隠し解散である。
 北朝鮮の脅威も利用して、国連で、憲法の精神に反する発言をおこない、国民の安全を優先させず、憲法を一貫して守らない違憲的姿勢を示した。
 国民の権利の中でも、とくに今大切なのは、平和に生きる権利であるにもかかわらず、総理の「専権事項」*3と、身勝手で自己都合の解散をおこなう。「国難」をいうのであれば、いまの時期の解散はないだろう。北朝鮮の危機は、結局、口実に使っているだけと言われても仕方あるまい。

*1:獣医師で帝京科学大学の桜井富士朗教授によれば、「自然界では、同じ食物を巡ってサル同士が真剣に争うという場面は、別の場所で採食すればよいので生じない。ボス的な振る舞いが出てくるのは、餌づけによって同じ食物を狭い場所で各個体が同時に争うという特殊な状況が生まれたからだという(「ニホンザルの生態」伊沢紘生著)。競争的状況の中に置かれると、最強個体が幅をきかすというのは、人間社会も猿まねをしていることになる」とのこと。となれば、「サル山のボス争い」というのはサルに対していわれのない表現となる。むしろ「人間社会のボス争い」というのが正確な表現となり、まさに今の日本の政治をあらわしていると言える。

*2:たとえば、佐川宣寿理財局長(当時)の国会での答弁が虚偽答弁だった可能性が高いと指摘されている。公文書管理もずさんな人物が国税庁長官に抜擢され、「すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」という憲法第15条第2項に欠いているのではないかと指摘されている。

*3:総理の解散権は「専権事項」と憲法に明記されているわけではない。この「専権事項」には疑問符がつけられている。日本国憲法が倣ったイギリスでは、解散が濫用されることを抑制する方向をとった。今回のように、8月の内閣改造で「仕事人内閣」と称して新内閣を発足させ胸を張ったにもかかわらず、新内閣発足後、総理大臣が所信表明を行わずに衆議院を解散したのは初めてのこと。