安倍政治の暴走を止めるために選挙に行かねばなるまい

 Constitutionalismというカテゴリーをこのブログで使い始めたのは、おそらく安倍政権が始まってからのこと。安倍政治の、憲法をないがしろにする言動が眼につき始め、これは憲法違反ではないのかと、疑問を持ち始めたことからのことだ。
 それで、立憲主義(Constitutionalism)というカテゴリーを考えざるをえなくなった。
 以来、日々のことに忙しく、きちんとひとつひとつを観察し、きちんとしたブログを書く暇も能力もないのだが、カテゴリーとしては、[Constitutionalism]というカテゴリーを使うことが圧倒的に多くなってしまった。特定秘密保護法、安保法制、共謀罪強行採決で、ますます使う機会が増えてしまった。
 これは、安倍政治が憲法をないがしろにしている政権であることの証左ではないのか。
それにしても、どうして自公安定多数という予想になるのか。小選挙区制の問題とはいえ、野党共闘、野党と市民の共闘を分断した政治家たちは、万死に値する。おそらく分断は意図的・策略的だったのだろう。


 ブログのカテゴリーの話はともかく、安倍政治の、憲法をないがしろにした悪政に眼をつぶることは到底できない。

マスコミテレビは、平静を装っているが、選挙までのこれからの数日間、選挙当日、そして選挙後、日本国内、とりわけ関心を持たざるを得ない人々の意識下は、戦争状態、内紛状態になっているのではないか。
 祖父の時代より、朝日新聞の購読者だが、朝日新聞が最善と思っているわけではない。家にあるのが朝日なので、ブログを書くときに、朝日からの引用を多用しているが、毎日新聞東京新聞でも、問題はない。ネット時代に、毎日や東京も読めるので、興味をひけば、引用させてもらっている。
 けれども、その朝日レベルが、安倍首相によって攻撃されているようだ。
 安倍首相は、憲法を守るべき義務を負う首相として、言論の自由表現の自由を、どこに置き去りにしてしまったのか。
言論統制ファシズムの一里塚である。麻生太郎氏の発言は本音なのであろう。
 個人的には文学を読む時間がほしいと思ってきたけれど、多忙な毎日で、文学を読んでいる余裕もない。テレビでは全くといってよいほど報道されないが、文学者たちが、安倍政治に対して、たいへんな危機感をもっているようだ。憲法学者もふくめて、大学の先生方も、たいへんな危機感をもっているようだ。

 当然のことだと思う。

 安倍政治なるものは、反憲法、反言論、反民主主義・反文学・反文化の独裁・専制なのだから。
 これではまさに戦争に突入した戦前を実体験しているような気分になっても不思議とは言えまい。
 その昔、高校生だった頃、日本の歴史を教科書や岩波新書で学び始めた時に、どうして、あのような無謀な戦争に突入したのか、祖父に尋ねたことがある。
 祖父は、それが、どうしたことか、いつの間にかわけのわからないうちに戦争になってしまったと言っていた。

 日曜日の選挙当日は、悪天候のようだ。
 天候の悪いことが投票率に影響して、投票率が下がれば、自公政権にとって、有利にはたらくと言われている。
平和と民主主義は、そんな覚悟のないことで守れるのだろうか。
ある日突然に戦争が始まったというような暴走を容認できるのか。言うまでもなく、そんなことは受け止めようもないだろう。
 民主主義の民度の水準として、オール沖縄の沖縄、そして原発事故で被災した福島は、天候で左右されるような脆弱さを示すのだろうか。そうは思えない。
 格差社会で、蓄えもなく、生きるので精一杯の庶民は、消費を確実に冷え込ませる消費税アップという悪政を前にして、諦めるのだろうか。そうであってはならない。
 安倍政治の暴走を止めるためには、なんとしても投票に行かねばなるまい。