「(語る 人生の贈りもの)柳家小三治:11 小沢さんの10日間、末廣亭の狂気」

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 以下、朝日新聞デジタル版(2017年11月14日05時00分)から。

 ■噺家柳家小三治

 私が前座のとき、「落語にかける与太郎の青春」っていうテレビのドキュメンタリーを撮りました。山奥のダムの建設現場で一席やるとか。そのナレーションをやったのが小沢昭一さんです。

 《放浪芸の研究などでも知られる俳優・小沢昭一(1929〜2012)だ》

 明日をもわからない、この世界に入ってすぐのころで、小沢さんの節度のある話しかた、品のある間の取りかたを聞いて、いつかこういう語り手になりたいものだなとあこがれ、お手本にもしました。

 《数年後の1969年、「東京やなぎ句会」で一緒になる。メンバーにはほかに、入船亭扇橋永六輔(えいろくすけ)、江國滋大西信行桂米朝加藤武神吉拓郎永井啓夫、三田純市、矢野誠一がいた》

 小沢さんは噺家(はなしか)になりたかった役者、私は役者になりたかった噺家です。小沢さんは、当時の落語界にはあまりにもすごい人がいるので太刀打ちできねえ、と新劇の世界に入った。私は、ただまっすぐ飛び込んじゃったんでしょう。それが句会で出会う。でも、江戸っ子は照れ屋ですから、話し込んだり、ほんとのことはふれないもんです。

 第1回の句会では「煮凝(にこごり)」っていう題が出ました。小沢さんの句は「スナックに煮凝のあるママの過去」。参ったですねえ。小料理屋じゃなくてスナックですから。

 その小沢さんに、新宿末廣亭へ10日間出ませんかって声をかけた。上野でも浅草でもなくて、新宿。小沢さんも私も、山の手の庶民ですから。それで、2005年6月の下席。連日超満員だった。あのお客さんの狂気は、何だったんでしょうねえ。

 私のマクラが長くなったのは、ラジオの「小沢昭一の小沢昭一的こころ」の影響もあるでしょう。私の師匠・五代目柳家小さんが、番組が終わった途端、「これが現代の落語っていうもんだよ」ってつぶやいたのを忘れません。

 小沢さんはくだけたことを言ってるけど、きちんとしたまっすぐな人でした。ありがたい同志っていうか、先輩です。(聞き手 石田祐樹