「湯川博士、生涯黙した極秘の原爆研究 にじむ反核の原点」

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 以下、朝日新聞デジタル版(2017年12月21日19時36分)から。

 没後36年を経て21日に公開された湯川秀樹博士の終戦前後の日記には、生涯語らなかった原爆研究についての記述が散見される。戦後一貫して平和と核廃絶を訴えたが、その転機となった、「反省と沈思の日々」と後に雑誌に記した沈黙の期間の動静も浮かびあがる。

戦前、動いていた二つの研究

 「午後 三氏と会合 F研究相談」。1945年2月3日付の日記はこう記されている。F研究は旧海軍の委託を受け、京都帝国大(現・京都大)が極秘で進めた原爆研究の名称だ。Fはfission(核分裂)の頭文字。指揮をとった荒勝文策教授のもと、後にノーベル物理学賞を受ける中間子論ですでに世界的に有名だった湯川博士が理論を担当した。この日の日記には、「荒勝、堀場、佐々木」という名前が書かれ、計4人で学外で打ち合わせをしたと記されている。

 日本の原爆研究はF研究と、旧陸軍の委託で理化学研究所(東京)が行った「ニ号研究」がある。戦況を打開する手段として、海軍が研究を本格化させたのは43年ごろ。44年10月には、大阪・中之島の海軍士官クラブ「水交社」で京大と海軍によるF研究の初会合が開かれた。原爆製造に欠かせないウランの濃縮計画の報告があり、湯川博士核分裂の連鎖反応について報告したことが知られている。

 翌45年5月には「F研究 決定の通知あり」、6月は「F研究 打合せ会、物理会議室にて」と記されている。

 7月21日、「午前雨 涼し 朝七時過家を出て京津電車にて琵琶湖ホテルに行く、雨の中を歩く。帰りは月出で九時帰宅」。日常生活の記述にも読めるが、この日はF研究の海軍との合同会議が大津市で開かれた。

 日本の原爆開発に詳しい山崎正勝・東京工業大名誉教授(科学史)によると、原爆の原料となるウランの入手が困難なことから、F研究はこの日の会議で事実上終了したという。原爆研究はF研究、ニ号研究とも失敗に終わった。

終戦後、湯川博士は…
日本の原爆研究に名を連ねていた湯川博士。記事後半では、F研究の最後の会議の様子や、戦後にGHQから受けた取り調べに関する記述も紹介します。

 F研究をめぐる湯川博士の日記の記述を、山崎さんは「当時の資料が少ない中、湯川博士ら京大が原爆研究に関与していたことを裏付けるものだ」と話す。

 ただ、湯川博士の原爆研究への関与は強くなかったとされている。F研究について戦後、連合国軍総司令部(GHQ)から数回取り調べを受けており、日記にも記述がある。9月15日、「午前十時 学士試験 その最中に米士官二名教室へ来たので直ちに面会」、10月4日にも「朝早く登校、部長室にて米第六軍士官四名と会見。理学部の研究につき質問を受ける」とある。後に明らかになったGHQの文書は「湯川はプロジェクトの理論にわずかしか関与していない」と報告。聴取に同行した米国の物理学者らが、湯川博士が不在の時に研究室の本や資料を調べ、本人にも尋問した結果、「自身の研究にすべての時間を割いていた」と判断したという。山崎さんも「日記に中間子論に関わる講義記録が多く書かれ、基礎研究に没頭していたことが見てとれる」と話す。

「反省と沈思の日々」数カ月の沈黙

 湯川博士終戦後、数カ月、外部への沈黙を続ける。再び口を開いたのは45年11月。雑誌・週刊朝日に「反省と沈思の日々を送って来た」としたうえで、「戦争は常に人類の幸福の破壊者である」と書き、強い反戦の意見を表明する。「科学は却って人類を破滅に導く原動力とさへもなり得るのである」とも指摘した。

 沈黙の間、湯川博士は何を考えていたのか。

 荒勝博士の孫弟子で、戦時中の核物理学の歴史に詳しい政池(まさいけ)明・京都大名誉教授(素粒子物理学)は、日記に度々出てくる人名に注目する。西谷啓治高山岩男高坂正顕――。湯川博士は9〜12月、京都学派と言われた著名な哲学者や文学者に頻繁に会っていた。

 10月17日の日記には「(西谷氏らと)科学と思想の問題を中心として論議」とある。この頃、湯川博士は広島と長崎を念頭に「この星に人絶えはてし後の世の永夜清宵何の所為ぞや」という一首を詠んでいる。政池さんは「原爆研究に関わった湯川博士が、今後どのように歩むべきか悩み、哲学者らと議論するなかで、平和への考えを深めていったのではないか」と推察する。(石倉徹也)

1945年の湯川日記(一部引用)

2月3日(土) 雪、寒し

朝11時より会議室にて入学者決定。59名中34名(定員31名)

午後 嵯峨水交社に荒勝、堀場、佐々木 三氏と会合

F研究相談。帰道 警戒警報発令。

5月28日(月)

登校。11時頃敵一機京都偵察。木村教授来室。荒勝教授より戦研(37の2 F研究)決定の通知あり

6月23日(土)

朝 駒井部長を訪問 科学々級疎開の件相談

三回生演習 小山君 Wentzel続き.

午後 戦研 F研究 第一回打合せ会、物理会議室にて.荒勝、湯川、坂田、小林、木村、清水、堀場、佐々木、岡田、石黒、上田、萩原各研究員参集.

廿二日 戦勇兵役法公布実施

上諭を賜う

沖縄部隊 尚島尻地区にて奮戦

7月21日(土) 午前雨 涼し

朝七時過家を出て京津電車にて琵琶湖ホテルに行く、雨の中を歩く。帰りは月出で九時帰宅

8月7日(火)

風邪気で頭痛がするので家に居る 明日子供等集団疎開なので何かと慌だしい

午後朝日新聞、読売新聞等より広島の新型爆弾に関し原子爆弾の解説を求められたが断る

8月13日(月)

午後一時 理学部長室にて会議

午後四時 原子爆弾に関し荒勝教授より広島実地見聞報告

9月15日(土)

午前十時 学士試験 その最中に米士官二名教室へ来たので直ちに面会、一人はMajor Furman 他は Lt.Munch

後者は日本語を上手に話す。途中 荒勝教授をも呼ぶ。一緒にミヤコ・ホテルに行く

Dr.Morrisonも一緒に会談、野戦食を御馳走になる。午後三時 三人再び教室に来り、荒勝研究室、内田研究室を見て、吉田教授に面会 五時前辞去。六時過ぎ Lt.Munchだけ又来る。扇子帯上げなどをpresentにする