以下、朝日新聞デジタル版(2019/12/22 5:00)から。
少数意見かもしれないが、最近議論をした自民党の若い議員の幾人かは、大学入試をめぐる今回の政権の対応について極めて本質的な危機感を抱いていた。
内閣支持率が急落し、衆院選が危ぶまれるだけではない。もっと深くて長い影響、つまり長期政権の足元を崩す「アリの一穴」になりかねないと言うのだ。
歴代の自民党政権に比べ安倍晋三政権が特異な点の一つは、若者層の支持が相対的に強固なことだろう。就職や雇用が堅調なせいだとしても、それは一政権の国政選挙連勝を下支えしてきただけでなく、ポスト安倍以降の自民党をも助ける遺産となるかもしれない。
だがここで、これから選挙権を行使する高校生ら若者の心に無力感や失望を刻印するなら、確かに話は逆になる。
それでも文部科学省をはじめ当事者に責任感は乏しい。教育格差を追認するだけの萩生田光一文科相の「身の丈」発言が現場に失望を広げても、本人の陳謝や英語の民間試験の導入延期といった繕い策ばかりだ。17日発表した国語と数学の記述式試験の見送りも同様である。
世論調査で文科相辞任を求める声が過半数に至らないのは、政権の火消しが功を奏した結果ではあるまい。世論は諦めているのだ。身の丈を強いる入試制度がいくら続こうと、この国の政治と行政は本気で改革などしない。歴史を画した長期政権もその力を教育格差の是正に注ごうとはしないではないか、と。
まさに政治不信の再生産である。
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それにしても、入試問題になるとなぜ大人は、「身の丈」に限らず、いつも心ない言葉を使うのだろう。
40年前の1979年に共通1次試験が導入されたときもそうだった。自分も高校生だったから実感がある。
1次試験の点が足りないと、2次試験を受けることさえかなわないことは「足切り」。共通1次試験により全国の大学の序列化が進み、偏差値だけで志望校が決まることは「輪切り」。そんな言葉を使って、疑問を持つな、準備を急げと教え込まれると、何が起きるか。朝日新聞が当時連載したルポ「いま学校で 高校生 底辺・頂点」を読み返せば分かる。
鹿児島の県立高校の話がある。恒例の体育祭の仮装行列で、3年生のクラスが段ボール箱で作った「一次マン」を登場させた。口から解答用紙を入れると、半分切れた足のはりぼてが出てきて、声がする。「アシキリダー」
背景をその高校を卒業した大学生が証言する。「教師は、当人の偏差値以上の難しい大学も、以下のやさしい大学も受けさせまいと、必死に説得をします」
あるいは、東京の私立女子高の3年生の投書に友人たちとの会話が残る。
「私、早大を受けようかしら」
「あなた、やめておきなさいよ」
「分相応にしておいたら?」
「そうよ。うちの学校は三流校なのだから……」
彼女は書いた。「『三流』とは何を基準にした言葉なのでしょうか?」「それで人間の価値までも決めてしまえるものなのでしょうか?」
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むろん、学校現場を覆う重苦しさは40年前の比ではなかろう。現代の輪切りは偏差値の前に家庭の所得という本人の努力とは無関係の数字で決まりかねない。
ただ、分相応や身の丈といった言葉が当たり前のように横行する状況に手をこまねき、深刻な教育格差がはびこるまで悪化させた文教行政の放置の罪を思う。
高校生たちが今、署名活動など異議申し立ての声をあげ始めた。党派的な運動に利用するのは言語道断だが、主権者教育の重要性が社会の共通認識となった時代である。管理教育的な発想でその声を封殺することがあってはならない。
それよりも、永田町や霞が関の人々にはぜひ、高校生に説くより前に主権者教育の学び直しをすすめたい。
誰かから与えられる正解などないのである。社会が抱える問題を自分ごととしてとらえ、自分なりの最適解を探そう。
大事なことは、現場の声と少数意見を尊重した豊かな議論ではなかったか。
(編集委員・曽我豪)