「震えて書いた特攻命令書 「人殺しと一緒」95歳の後悔  戦後75年特集」

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 以下、朝日新聞デジタル版(2020年8月20日 5時00分)から。

 太平洋戦争末期、米軍の艦船に体当たりする攻撃で多くの命が失われた特攻。日本統治下の台湾で多胡恭太郎(たごきょうたろう)さん(95)に課せられたのは、どの隊の何機を特攻機として飛び立たせるかを指示する「命令書」作りだった。
 「敵機動部隊は沖縄慶良間沖に集結しつつあり」
 「我軍はこれ(敵艦)を捕捉(ほそく)殲滅(せんめつ)せんとする」
 岡山県北部、津山市にある多胡さんの自宅。筆ペンを手に取り、記者の前で、その「命令書」を一言一句、再現してくれた。
 『書くときは隊員の顔が頭に浮かんでな。お互い立場が違うから言葉こそ交わさんが、飛行場では気をつけをして敬礼してくれる。だからみんな知っとる顔じゃ……。何度も何度も書き直して。身が斬られる思いじゃった。人殺しと一緒じゃ。全部で10枚ほど書いた。20人以上はわしが飛ばした。人生で最もつらい経験だった』
 1945年春、陸軍第九飛行団は、台湾北東部の街・宜蘭(ぎらん)の基地に近い洞窟に司令部があった。当時19歳だった多胡さんは攻撃の計画を練る司令部中枢の作戦室に所属。明かりに照らされた洞窟の個室の机で、A4判ほどの書面に向かい、がくがく震えながら鉛筆を走らせた。

 

 (後略)

 

 (華野優気)