「(コトバと沈黙)思考奪う「呪い」の声、あふれる 自己と対話、沈黙が言葉を鍛える」

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以下、朝日新聞デジタル(2021/1/7 5:00)から。

 一人が話し出すと、もう片方のマイクが強制的にオフになる。昨年行われたアメリカ大統領選の、トランプ氏とバイデン氏による討論会。超大国の次なる代表を見定めようと、世界中から注がれたまなざしは、そんな光景を見た。攻撃的な応酬が加速し、言葉が瞬時にあふれては消える時代を象徴する出来事だった。

 8年近く続いた安倍政権下でも、質問から論点をずらし、ごまかす構図を表す「ご飯論法」というフレーズが注目を集めた。この語を世に広めた法政大学の上西充子教授は、相手の自由な考えを縛り、都合の良い思考の枠組みに閉じ込めようとする言説を、「呪いの言葉」であると語る。

 国会審議の映像を街中で流す「国会パブリックビューイング」の取り組みなどを通じ、上西さんは「野党は反対ばかり」といった批判がくり返されるのを目の当たりにした。政治に限らず、社会では同種の言説が交わされていないか。そう感じた上西さんが「#呪いの言葉の解き方」として、SNSで「呪い」とそれに対する切り返しの例を呼びかけると、多くの反応が寄せられた。

 「そんな初歩的な事も知らないのか」「反日」「逆らっても無駄」

 問題をすりかえるもの。嘲笑するもの。他者を攻撃するもの。結果をまとめたサイトには、対話することを否定する種々の「呪い」が並ぶ。「『これは私の思考を奪おうとする呪いなんだ』という意識を持つことで、今の状況を徐々に変えられるのではないか」と、上西さんは話す。

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 インターネットの急速な進展は、社会を変えた。「#MeToo」運動をはじめ、これまで発言を抑えられてきた人々が声を上げ、大きなうねりとなる場面が生まれた。一方、他者への思慮を欠いた暴言があふれたり、ただ声の大きな者が勝ったりする状況に、私たちは直面してもいる。

 「ことばがさいげんもなく拡散し、かき消されて行くまっただなかで、私たちがなおことばをもちつづけようと思うなら、もはや沈黙によるしかない」。詩人・石原吉郎は半世紀前、「失語と沈黙のあいだ」と題した文章の中で、そう記した。

 作業場に向かう列から少しでも左右にずれれば銃殺され、食糧が完全に等分されているか囚人が監視し合う。会話からまず形容の語が消え、次いで「俺」「お前」といった個人を指す語が消える――。過酷なシベリア抑留を経験した石原は、収容所で人が失語する過程を直視した。

 石原にとって「失語」と「沈黙」は似て非なるものであったと、文学者で詩人の冨岡悦子さんは話す。評論『パウル・ツェラン石原吉郎』を発表した冨岡さんは、彼の詩文をたどり「むしろ沈黙は、言葉の一種の母体なのではないか」と考える。

 冨岡さんによれば、石原が指す失語とは、収容所で人が他者の生き死にに無頓着になるように、外の世界への関心を失った状態だ。関心がない相手には、平気でウソ、空疎な言葉を口に出来る。それ故、失語には異様な「饒舌(じょうぜつ)」が伴う。そして失語から脱却して発語に至ろうと、自己との対話や内省を重ねている段階こそが沈黙なのだという。

 「共感が『いいね!』、批判が『死ね』などと単純に表現される現代は、言葉が沈黙の領域を経ていない、失語状態に陥っているようにみえる」。だが、10年前の東日本大震災、あるいは今も続くコロナ禍という言語を絶する災厄を知る私たちだからこそ「言葉を沈黙の中で鍛え直すべきだ」と、冨岡さんは言う。

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 昨年8月、東京・下北沢で新宿梁山泊による音楽劇「風まかせ 人まかせ」が上演された。コロナ禍の影響で閉店するライブハウスに、様々な事情を抱える常連たちが集まるという物語。客席と透明板を隔て、ギター片手に歌う一人の姿があった。

 〈昨日も今日も生きてはみたが 幸せそれとも不幸せ……人権尊重どこ吹く風で 格差社会の生き地獄〉

 「パギやん」こと趙博(ちょうばく)さんは大阪・西成に在日コリアン2世として生まれた。大学で朝鮮半島の歴史を学び、この国の在り方に疑問を抱くようになった。在日、障害者、困窮する労働者……。「その人たちにも言いたいことが絶対にある。代弁するなんておこがましいが、僕は表現者としてそっちの側にいたい」。約40年の活動を振り返り、趙さんは言う。

 趙さんの歌にとって重要な意味を持つものの一つに、「恨(ハン)」がある。「朝鮮語『恨』は日本語の『恨み』のように晴らすものではない」。星霜を経て酒が醸されるように、哀(かな)しみや苦しみを胸に抱え、昇華させていくのが「恨」だという。

 言葉が生まれるまでの沈黙を許さず、「恨」を受け止めない社会。それは「『恨み』を晴らすこと、敵を攻撃することしかしない、危うい状態にあるものなのではないか」と、趙さんは問う。(山本悠理)=おわり