今日はアメリカ独立革命記念日 ー東京都民は都知事選の投票に行こうー

 今日は、アメリカ革命の独立記念日

 おりしも7月7日に東京都知事選挙がある。

 アメリカ独立は、アメリカ革命と呼ぶべきものであり、アメリカ革命は、歴史的限界は当然ありながらも、ラディカルな市民革命であったことは間違いのないところだ。

 イギリスの植民地であった東部13州は、従属か独立か、論戦が展開された。トマス・ペインの「コモン・センス」という小冊子の果たした役割は大きかったと言われる。

 さて、今週三日後に、東京都知事選がある。

 「市民と野党の共闘」を支持する自分は、小池百合子氏現職の三選はなんとしても阻止しないといけないと考えている。東京都のみならず日本の民主主義の危機と考えるからである。

 いま始まっている市民一人ひとりによる「ひとり街宣」は、こうした日本の民主主義の危機に対する決起・一揆ではないかと思えてならない。

 「ひとり街宣」がこれだけ広範囲に広がっているのは、「危機感」と同様に一人ひとりに「確信」があるからこそだろう。知れば知るほど小池百合子の悪事は我慢の限度を超えている。政策の違い程度であれば、そこまで決起しないのが日本人の「ふつう」と思われるが、小池都知事のペテンと腐敗は目に余るものがあるからだ。これはここ数年見られることのなかった革命的情勢と言えまいか。まさに「もはやこれまで」と言えないだろうか。「終わり」の「はじまり」と言えないだろうか。

 テレビ報道で「小池さん優勢、石丸伸二氏猛追」を聞くにつけ、日本の民主主義はまさに崖っぷちと感じざるをえない。危機意識を深くして、決起しなければならない。

 さて、「生きる権利」・「自由と幸福を追求する権利」と政治との関係。革命権の革命義務の承認と民主主義との関係については、哲学者・芝田進午さんの説明がわかりやすく、説得力がある。

 以下、「人間の権利 アメリカ革命と現代」(芝田進午編著)<1977年>より引用する。
 なお、掲載にあたっては、勝手ながら、冒頭部分をまずは割愛し、その割愛した冒頭部分についてはあとで掲載させていただいた。

 (前略)

…政治というものは、けっして自己目的ではない。それは、すべての人間に「生きる権利」、ついで自由と幸福を追求する権利、その他の権利を保障するという目的のための手段でしかない。政治がそのような手段として機能しなくなったばあいには、人間とそのゆずりわたしえない権利が変更されるのではなくて、逆に政治が変更されなければならない。
 このようにして、アメリカ独立宣言は、「生きる権利」から「革命権」をひきだすのであるが、それだけではない。「独立宣言」では、つぎのようにさえ主張されている。
 「長期にわたる暴虐と強奪があきらかに一貫した目的をもって、人民を絶対的専制のもとにしたがわせようとする意図をしめすばあいには、そのような政府を打倒して、みずからの将来の安全のために、新しい保障機構をもうけることは、人民の権利でありまた義務でもある。」(ゴチック*1は筆者)
 みられるように、人民の権利を専制によって圧倒する意図をもつ政府にたいしては、人民は、それに抵抗し、またそれを変革する権利をもつだけではない。さらに一歩すすめて、抵抗し、変革する義務を負うというのである。アメリカの独立宣言が、権利であるとともに、義務でもあるものとして、専制の政府にたいする抵抗、革命だけをあげているのは重要である。まことに、抵抗権・革命権のみでなく、抵抗義務・革命義務の承認と主張。これこそ、「生きる権利」にはじまる基本的人権の諸形態を最終的に保障する最後の権利であり、またそれらをすべて包摂する最大の義務でもある。そのような制度も思想も、この革命権と革命義務を否定するかぎり、けっして民主主義的でありえず、また基本的人権を尊重するものとはいいえない。革命権と革命義務の承認と主張こそ、アメリカ独立宣言の核心にほかならず、また民主主義ならびに人間の権利尊重の試金石なのである。もし、われわれの周辺に、革命権と革命義務の承認を否定し、これをおそれる人がいるとすれば、その人は、アメリカ独立宣言について、さらに民主主義、人間の権利についてさえ無知であり、無教養であることを告白する人であるにすぎない。以上の文脈にてらしてみて、二〇〇年前のアメリカ革命の原理が、今日もなお不滅の意義をもつことはあきらかである。

 「前略」として略した冒頭部分を次に掲載する。
 なお文章が書かれた時期は、アメリカ革命二〇〇周年を祝った40年以上も前の1976年であることにご留意願いたい。

 約一ヵ月前の七月四日、われわれは、アメリカ革命二〇〇周年をいわった。二〇〇年前のこの日、“新世界”アメリカは独立し、その革命行動を「独立宣言」のつぎの言葉で正当化したのであった。
 「われらは、つぎの真理が自明であると信ずる。すなわち、すべての人間は平等につくられ、造物主によって一定のゆずりわたすことのできない権利をあたえられていること、これらの権利のうちには生命、自由、および幸福の追求がふくまれていること。また、これらの権利を保障するために、人間のあいだに政府が組織されるのであり、これらの政府の正当な権力は統治されるものの同意に由来すること。さらに、どのような形態の政府であっても、これらの目的をそこなうようになるばあいには、いつでも、それを変更ないし廃止し、そして人民にとってその安全と幸福をもっともよくもたらすとみとめられる原理にもとづいて新しい政府を設立し、またそのようにみとめられる形態で政府の権力を組織することが、人民の権利であること。」
 「独立宣言」の起草者トマス・ジェファソンが、そのように平等であるすべての人間のゆずりわたしえない権利の筆頭に、「生命」をあげ、しかるのちに自由と幸福を追求する権利、またその他の権利を順序づけたことは重要である。実際、人間にとって、まずなによりも大切なものは「生命」であって、これなしには、他のあらゆる権利、他のあらゆる価値は無であるほかはない。すべての人間は、たった一つしかない人生をまっとうし、有意義に生きる権利をもつ。人間にとっては、まず「生きる権利」が保障されなければならず、それを前提としてのみ自由と幸福を追求し、その他の権利を行使することができる。

 (後略)

 くり返しになるが、芝田さんの原文は、以上掲載した文章の「後略」の箇所に、前掲の文章が続いている。
 今回、哲学者・芝田進午さんの文章を勝手に前後を入れ替えて掲載するという恣意的な編集をお許し願いたい。

*1:原文では、ゴチックでなく傍点。