機械翻訳と英語学習、ChatGPTをつかった翻訳術を紹介する本を読んだ
すでに二カ月ほど前の話になるが、機械翻訳やChatGPTにたいする興味から、以下の書物を読んでみた。
(1)「AI・機械翻訳と英語学習 教育実践から見えてきた未来」山中司編(朝日出版社)2024年
(2)「ChatGPT翻訳術 新AI時代の超英語スキルブック」山田優(アルク)2023年。
(1)では立命館大で進行中の「プロジェクト発信型英語プログラム」について書かれていること、(2)では翻訳時の留意点、とくにChatGPTのプロンプトの書き方について理解できたことが役に立ち、それぞれ面白く読んだ。
これら二冊ともに、「翻訳を実践するにあたっての」という技術的な範囲の話に終始しているため当然なのだが、結局、最後は人間が判断するという点に共通性があり、機械翻訳や人工知能が導入されることに関する批判的観点はない。翻訳に限っていえば、積極的に導入すべきという論で、たとえば、慶應の政策・メディア学部・学科出身者が立命館大学を実験場にかなり積極的に機械翻訳の導入・実践をすすめている状況がみてとれる。こうした立命館大学の組織的取り組みに限らず、各大学においても、個人的に英語教育に導入している先生方もおられるのだろう。
これは今回読んだ本の話ではないのだが、個人的には、機械翻訳やChatGPTを批判的に研究している方もおられるかもしれない。とりわけ、教育問題はもとより、平和と民主主義・人権・環境問題などの観点から、批判的に見ている研究団体や個人は日本に存在しているのか、個人的に興味がある。というのも、今後、教育実践において、なんらかの規制の検討が必要と思われるのだが、この辺はフランスなどのEU諸国のほうが敏感であり、日本は鈍感なのではないかという偏見があるが、実際どうなのか。
これまで英語教師として、島国である日本の言語環境を大前提に、人並みに、個人的に、渡部・平泉論争の実用か教養か論争や、1985年から1990年頃のWWW以前の時代に、その後「インターネットは空っぽの洞窟」(1997)などの本を読みつつ、電子メールを使ったパソコン通信を活用し、言語環境の変化を感じとったり、2004年頃は、ビッグデータから用例を引くコーパス言語学に興味をもったり、公教育としての英語教育のあり方を考えたりしてきた。
長年勤めたしごとばも退職したため学校現場で英語教師として生徒に向き合う機会はなくなったが、昨年、機械翻訳を使って良いので翻訳してほしいという依頼を個人的に受け、DeepLを使い始めた。DeepLの翻訳スピードには驚いたが、DeepLの日本語理解(入力と出力)が、日本語らしい表現、さらには、こそあどなどの「照応」、男性・女性別などの「人称」理解(入力と出力)等に弱点があることがわかり、今回読んだ2冊の本の言う通り、ポストエディット(事後編集)が必要な点で、機械翻訳はまだ完璧ではなく、人間の力が必要な点に安堵した。
原文尊重の観点から、実際の翻訳作業では原文のプリエディット(事前編集)は全くおこなわなかったのだが、DeepLを使って翻訳をおこなった経験から機械翻訳を使うのであれば日本語原稿のプリエディットの必要性を強く感じた。機械翻訳を使って翻訳するのであれば、むしろ積極的に、そして綿密に、原文に最低限のプリエディットを入れていくほうが効率がよいだろう。
DeepLを使っての機械翻訳には、先に述べたように、ポストエディットが必要なことは言うまでもない。もちろんそこに時間をかける必要があるのだが、機械翻訳による「逆翻訳」を併用すれば、翻訳完成度が上がるのではないかとも作業中思いついた。これはやってみれば誰でも気がつくことと思うが、ポストエディット中、自分なりにこれでよいのか気になったセンテンスをときどき「逆翻訳」をかけてみた程度だが、もっと積極的に「逆翻訳」をかければ、完成度が上がる手ごたえも感じた。
これは機械翻訳の話ではないのだが、昨年より時々マイクロソフトのBingを使い始めている。詳しいことは知らないが、BingはChatGPTがベースになっているようだ。このBing、誤答もあるがマニア的な質問にも答えてくれる点が面白い。
さらに大変遅まきながら二カ月前よりChatGPTを使い始めて、驚き、不安にもかられた。
まだ十二分にChatGPTを使っているとはいえないが、DeepLとChatGPT、それに、Google 翻訳やGingerや文法チェッカーなど、いろいろなアプリを使えば、わたしのような自称「なんちゃって英語教師」であっても、それなりに精度の高い、かつ流暢な翻訳が可能という見通しが立つと感じた。ひとつだけこれは良いと感じたことは、母語の重要性が強調できること。機械翻訳やChatGPTの時代になって、逆に、母語の重要性を強調できることは良いことだろう。けれども、概括して言えることは、今日のAI環境には全く驚くばかりだが、同時にいやな時代になったものと言わざるをえない。
ひとつは、セキュリティの問題である。
翻訳ビジネスの条件では、セキュリティの関係から、依頼者が翻訳者にChatGPTやGoogle翻訳の使用禁止を指示することもよくあることだという。
あらゆるデータの電子化がすすみ、デジタルのビッグデータが利用される中で、個人データがビッグデータに組み込まれていく。ビジネスとして、企業情報の漏洩は放置できないのは当然のことだろう。
ビジネスばかりでなく、個人の知の支配や依存。さらには個人の支配や依存・隷属が進行しないのか。個人としても危険性があるだろう。
個人の自由な領域がどんどん侵され、個人の空間と時間と世界にビッグブラザーの支配が及んでいく。少数のオタク的世界だけではなく、スマホ所持が当たり前になりつつある今日、その危険性は万人に増大していると言えるだろう。
そして、教育や学校の世界。
大学教育で、機械翻訳や外国語学習がどのようになっていくのか。そして、それが高校や中学、小学校でどうなっていくのか。
ノーム・チョムスキーは、ChatGPTを基本的にハイテクによる盗作、ハイテク盗作(high teck plagiarism)と呼んだ。機械翻訳の結果を最後は人間が判断するというが、それは当たり前のことだ。
さて機械翻訳やChatGPTに関して、今回読んだ二冊が触れていない課題もあると思う。
第一に、世界的にAIの独占化が進むなかで、機械翻訳やChatGPTについて、ヨーロッパなどにくらべ、日本は規制が弱いようだが、そもそも平和と民主主義・人権・環境問題として問題はないのか。
第二に、機械翻訳やChatGPTにたいして、とりわけ批判的論調があまりみられない印象があるが、教育界の反応や識者の反応が鈍いのはどうしてなのか。
第三に、実際学校はどうするのか。教師はどうするのか。子どもを守るために、子どもを育てる環境として、学習環境として、どう考えたらよいのか。心理的影響はどうなのか。発達年齢・使用環境、なんらかの規制が必要と考えるが、実際どう対応するのか。カリキュラムを考えるにしても、母語のちから、そして英語の文法の力がなければ機械翻訳やChatGPTを使いこなすことはできないと考えるが、英語教育のカリキュラムをどうするのか。
こうしたことを考えるために、機械翻訳やChatGPTに批判的な考察も読む必要がある。今後そうした論稿の本があれば読んでみたい。