杉山進「遥かなスキー」を読んだ

遥かなスキー

 杉山進著「遥かなスキー 人生で大切なことはすべて、雪と山が教えてくれた」をたいへん面白く読んだ。
 本書の前半は競技スキーヤーとして、後半はスキー教師としての自叙伝になっている。
 世界におけるスキー発祥の話をふまえて、日本のスキーの歴史に触れていることも、ためになる。
 オーストリア留学時代の話とスキースクール創設時代の話も面白い。
 スキーはインターナショナルなスポーツだとつくづく思う。
 そして、スキーは、自然とダイレクトに触れ合えるスポーツである。


 いろいろと紹介したくなるが、たとえば、「目的と手段」。

 私は、スキーの技術習得は手段であって、目的ではないと、常日頃思っている。究極の目的は、雪山の自然との触れ合いにあるのではないだろうか。技術を高めることで、より安全に、より確実に、さまざまに変化した冬の自然の中を動き回れるようになる。そのために技術力を高める。そうした視点に立ってスキーを、スキー指導を見るとき、私たちは技術だけを教えてスキー教師の仕事を全うしたと言えるのだろうか。技術指導プラス、アルファの時代だと思う。冬の自然について、何かひとつ知識を高め、生徒に対して技術プラス、アルファを伝えたい。


 また本書で紹介されている、以下の、アールベル*1グスキー倶楽部の設立趣意書(1901年)。

 自然に魅せられ、スポーツに喜びを見出し、その導き、楽しみを共にする仲間のためにささやかな集いの場所をアールベルグにつくるべく、その場に居合わせた人たちが、スキー倶楽部アールベルグを設立した。


 また、以下の「ストーブ談義」。

 日本にスキーが渡来してスキーリフトが出現するまでの30数年間、スキーの舞台は雪山の自然との触れ合いが中心だった。1日山を歩き、滑って山小屋に戻ると、ストーブが赤々と燃えていたものだ。ストーブの上には網の棚が設けられ、濡れた帽子、ウエア類などが載せられていた。そして、夕食後はそのストーブを囲んで、夜な夜な「スキー談義」が始まったものだ。原始時代以来人間は、「火」に対する想いは特別なものをもっていたのではないだろうか。炎を見つめていると神秘的な世界に入っていくような気がする。


 また、「先生と呼ばれて」の箇所。

 私たちスキー教師はスキーをつけて雪の上に立つと、「センセイ」と呼ばれる。この言葉の魔力に気づいているだろうか。「先生」を広辞苑で引くと「学徳が優れた人」「自分が師事する人、またその人に対する敬称」「医師、弁護士など指導的立場にある人に対する敬称」とある。この広辞苑の言葉を見て、なおそう呼ばれて不思議ではない、と思う人もいるだろうが、私はかなり抵抗を感じる。そう呼ばれるだけのものを内在していないと思うからだ。
 私たちが講習の対象とする生徒には、まさに学徳の優れた人がおられる可能性がある。私たちにとってこの言葉の怖いのは、20歳代といった若いスキー教師が社会経験豊かな年配者から「先生」と呼ばれること。それに慣れてしまうと、呼ばれて当然、そのように呼ばれないと不満に感じる……これは危険だと思う。そこには謙虚さがなくなっている。といってひとりひとりの生徒に「先生」と呼ばないで下さい、と念を押すのも現実的ではない。したがって、私は、そう呼ばれても麻痺しないように自戒の念を常に失わないように心がけているつもりだ。

 「センセイ」と呼ばれるすべての人たちにこの言葉を贈りたい。

*1:「アールベルグとは、アールベルグ峠を挟んでチロル州とフォアアールベルグ州の2州にまたがる地方」のことをさす。