Creedence Clearwater Revival の "Fortunate Son"(1969)

 今年は「新しい戦前」になるかもしれないというタモリさんのコトバが脳裏からはなれない。

 新春にあたり世界の平和を願わずにはいられない。

 Creedence Clearwater Revival(CCR)は1967年から1972年にかけての4年余りの活動の中で"Proud Mary"(1968) "や、"Bad Moon Rising"(1969) "、"I Heard It Through the Grapevine"(1970)、"Have You Ever Seen the Rain"(1970)など、数々のヒット曲を出した。

Fortunate Son

 CCRの"Fortunate Son"(「幸運の星の下に生まれた子弟(特権階級の息子)」)は、ベトナム戦争最大の転機となったテト攻勢の翌年1969年11月に発売され、これもビルボード3位となるヒットとなり、カウンターカルチャーベトナム反戦運動の代表曲となった。発売前年、アイゼンハワー元大統領の孫と翌年大統領となるリチャード・ニクソンの娘の結婚を頭に置いてジョン・フォガティによって書かれた2分半にも満たないこの唄*1に溢れているのは、国会議員や大金持ちなど特権階級の子弟が愛国心を鼓舞し戦争に賛意を示しながらも自らはいろいろな理由をつけては徴兵を逃れたり税金逃れをおこなって国や社会に何ら貢献をしない一方、大義なき戦争に説明もなしに駆り出される一般の青年たちや恵まれない青年たち*2、その殺される側としての怒りであった。
 かかとの骨の異常を理由にベトナム戦争で徴兵猶予を何度もした特権階級の代表でもあるトランプ候補は、ジョン・フォガティが曲の使用を止めてもらいたいと使用中止命令を書面で伝えても、これを無視して、2020年米大統領選でヘリを用いた集会への入退場の際に何度もCCRのFortunate Sonを使い、さらに翌年ホワイトハウスを去るときにもこれを大音量で流した。

 

 恨み・恨まれ、殺し・殺される社会を変えて、すべての人にとって安全・安心な社会を!

 

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 以下、拙訳。

幸運の星の下に生まれた子弟(特権階級の息子)


この世にはあの赤白青の国旗を振るために愛国心に富んで生まれてくる奴がいる
そして「大統領万歳」を楽隊が演奏するとき
主よ、大砲がお前に向けられるんだ

俺は違う 俺は違う 俺は上院議員の息子なんかじゃねぇ
俺は違う 俺は違う 俺は幸運の星のもとに生まれた特権階級の子どもなんかじゃねぇ

 

この世には銀のスプーンを手に持って生まれてくる奴がいる
主よ、奴らは自分で自らを助けないのか
でも税務署が家に来ると
奴の家をがらくた市のようにみせるんだ、そうなんだぜ

俺は違う 俺は違う 俺は大金持ちの息子なんかじゃねぇ
俺は違う 俺は違う 俺は幸運の星のもとに恵まれた特権階級の子どもなんかじゃねぇ

 

星条旗を愛する考えを受け継ぐ奴がいる
そいつらこそがおまえを戦地に送るんだ
「どれほど貢献しないといけないのか」とおまえが尋ねると
「もっと、もっと、限りなんかない」と奴らは答えるだけ

俺は違う 俺は違う 俺は軍国主義で育てられた息子じゃねぇ
俺は違う 俺は違う 俺は幸運の星のもとに生まれた特権階級の子どもなんかじゃねぇ

 

Willy and the Poor Boys

 

*1:The Meaning of Creedence Clearwater Revival's "Fortunate Son" - Extra Chill

*2:ベトナム戦争で戦地に駆り出されたのは、一般の白人の子弟もそうだが、とりわけ黒人米兵が厳しい戦地に送られた。

「新しい戦前」というタモリさんの深い発言

 先日たまたま徹子の部屋を見ていたら、たしか来年はどんな年になるかというような黒柳徹子氏の質問にたいしてタモリさんが「来年は新しい戦前になる」と発言していた。「あれ、タモリさん、いま「戦前」って発言したの」と素直に疑問に思って、巻き戻したら(たまたま番組を録画していた)たしかに「戦前」と言っていて少なからず驚いた。というのも、タモリさんは笑っていいともで故安倍晋三氏が登場したときも含めて、長年政治的な発言をしたことがなかったように記憶しているからだ。

 「戦前」発言はたいへん深い発言で、さすがタモリさんと見直した。

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タモリ「来年は新しい戦前になる」発言、経済学者の金子勝氏が賛同「お笑い界の人はすごい」 (msn.com)

南半球のスキー場(15)

 コロナ禍の日本にあってはたしてウィンターシーズンはどうなるのか予想が立たない時期に、四季が逆の南半球のスキー場を参考にしようと考え、「南半球のスキー場」と題して、Lonely Planet guidebookを斜め読みしてオーストラリアとニュージーランドのスキー場についていくつか記事を書いたことがある。

 オーストラリアには何度か訪れたことがあるし、アオテアロアニュージーランドでは、短期間だが8カ月ほど滞在したことがあるけれど、残念ながらこれまで南半球でスキーをやったことはない。

 さてアオテアロアニュージーランドでは、北島でも南島でもスキーができる。

 たいした内容ではないが、これまでの自分の記事をまとめてみると、北島は、トンガリロ(Tongariro)国立公園にあるファカパパスキー場(Whakapapa Ski Area)。このファカパパスキー場はMt Ruapehu(ルアペフ山)にあり、このルアペフ山の山頂を挟んだ対面にTuroa(トゥロア)スキー場もある。あと北島には、富士山に似たタラナキ山(Mt Taranaki)があり、ここでも火山スロープでスキーができるようだ*1

 南島は南極に近いこと。そして標高の高い山もあることから、スキー場は少なくないと想像される。南島では、Mt Hutt(ハット山)やハット山に近いMt Potts(ポッツ山)でスキーができるという。宿泊地としてはMethven(メスベン)とAshburton(アッシュバートン)がベースキャンプ。宿泊と食事は、スキー場から8キロ離れたポッツ山のロッジでも可能という。

 あとQueenstown(クイーンズタウン)近くのスキー場のひとつが、Coronet Peakスキー場、等々。

 概略として以上の情報をLonely Planet guidebookを斜め読みして紹介したけれど、なにしろ、アオテアロアニュージーランドでは実際にスキーをやったことがないし、本の情報からの引用だから、正確なところは確信がない。

 そうした意味で、先日見た極東スキー振興局の「今すぐスキーがしたくなる動画【NZスキー2021】」は大変参考になった。

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今すぐスキーがしたくなる動画【NZスキー2021】 - YouTube

 極東スキー振興局の井上雄介氏は、現在、北海道はニセコニュージーランドはカードローナを拠点に活躍されているスキーインストラクターであり、またYouTuberで、スキーというものの運動力学を丁寧に教えてくれる氏の動画はたいへん参考になる。井上雄介氏は、これまでイタリアをはじめ何十か国も海外を旅しているようだが、現時点ではニュージーランドをひとつの拠点に選んでいる。その理由は、北半球と南半球に半年ずつ滞在すれば、一年中スキーができる*2という理由以外に、スキー技術指導において、スキー大国でないにもかかわらず、本質・真髄をついて指導内容を簡素化する努力をしているニュージーランドの指導方式を井上雄介氏が評価している点があるようだ。これはすばらしいと思う*3オールブラックスを生んだラグビー大国のアオテアロアニュージーランド。子どものときからタッチラグビー*4など広範囲の大衆を巻き込んだスポーツが盛んだ*5。その指導方法は、大衆スポーツも一流選手も同じ技術指導を受けて成長している。井上氏によれば、それはスキーも同様だという。広範囲にわたる一般指導も一流競技者へのスキー指導も同じ技術指導だという。これはまさにアオテアロアニュージーランドらしく大いに好感が持てるではないか。

 この動画によると、南島のワナカ(Wanaka)あたりから車で南島のスキー場にアクセスしている印象があるのだが、この動画で紹介されている南島のスキー場は以下のとおり。

 〇トレブル・コーン(Treble Cone)

Skiing & Snowboarding At Treble Cone Ski Area | Treble Cone, New Zealand | Treble Cone

 〇カードローナ(Cardrona)

Ski, snowboard, bike, cart & more in Queenstown & Wanaka | Cardrona NZ

 このカードローナは、井上雄介氏のベースゲレンデのようだ。

 「今すぐスキーがしたくなる動画」とあるように、またアオテアロアニュージーランドを訪れてみたいという気持ちにさせられる動画であった。

*1:アオテアロアニュージーランドを車で周遊したときタラナキ山を遠方から眺めたことがある。富士山に似た山で、登山を侮ってはならず、自然環境は厳しいと聞いた。タラナキ山の麓のオプナキに居候を決める - amamuの日記

*2:井上雄介氏はニュージーランドと日本で年間最低で200日は滑っているという。

*3:日本の場合、教育現場のまともな教育思想が政治的に捻じ曲げられることが多い印象があるが、アオテアロアニュージーランドでは、日本に比して、教育現場でのまともな教育思想が政治的に捻じ曲げられることが少ない印象がある。機会はそれほど多かったとはいえないが、これらはアオテアロアニュージーランドの教育現場を実際に観察しての印象である。学校で大切なことは、教育権と学習権 - amamuの日記 (hatenablog.com)

*4:タッチラグビーに似たコトバで、タグラグビー(tag rugby or flag rugby)というものがある。タグラグビーも、ラグビーを基本にしているが、競技者はベルクロタグのついたベルトやベルクロパッチのついたパンツを着用し、ボールをもったプレーヤーにタックルではなく、タグのついたベルクロを引っ張ってタックルの代わりとする。タッチラグビー(touch rugby)も、もちろんラグビーを基本にしているが、タックルをタッチに置き換えている。タッチラグビータグラグビーラグビーを基本としているので似ているが、タグラグビーのほうがよりラグビーにより近いと言われている。ラグビーなどのコンタクトスポーツは危険であるが、100%の安全性の確保は不可能であっても、安全性を高めることはできるし、そうしなければならない。アオテアロアニュージーランドは、そうした姿勢と実際の実践力が高いという印象がある。

*5:これは、スポーツの技術面ではなく、精神性についてのことではあるが、ニュージーランドが大切にしていることを聞いたことがある。ニュージーランドのスポーツで大切なこと - amamuの日記 (hatenablog.com)

「英語能力試験は必要ですか?」(スティーブ・カウフマン)

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英語能力試験は必要ですか? - YouTube

 

 以下は、スティーブ・カウフマン氏の「英語能力試験は必要ですか?」(2008年)のあらまし。本動画は、日本語によるものなので、実際に動画をみてほしい。以下は、聞き起こしではなく、氏のお話のあらましを主観的に編集したもの。

 自分は、これまで日本語も含めて10か国語くらい学び、実際に使って話してきた。
 自分の経験では、コトバを学ぶうえでテストを受けた経験はないし、テストで学んだこともない。テストは意味がないと考えているし、正直テストは受けたくない。
 日本では、英検、TOEIC、IELTSと、テストに関する参考書が多く、テストしか考えていない印象がある。

 自分の考えでは、コトバを学ぶ目的はコミュニケーションであり、コトバを話すことは、歩く、走るという日常生活と同じで、テストはする必要がない。

 たとえばテニスであれば実際に試合をおこなえば実力はわかる。何点などと点数をつけても意味がない。
 同じく、ある人がその外国語ができるかどうかは、座って話をすればわかる。商売の交渉でも力がわかる。
 アメリカのマクグローヒル(McGraw-Hill)出版会社。テストはビッグビジネス。たくさんの人間がテストのために働き、宣伝活動・販売活動と忙しい。テストが実施できればそのための参考書をたくさん売ることができる。でも、基本はコトバ。コトバそのものに学習者は接近しなければいけない。

 コトバというものは、たとえば英語を使う機会がなければ、また興味がなければ、上達しないもの。だから、英語を使う機会ができたり、仕事で必要になれば、すぐ(十分とはいえないまでも)できるようになる。
 自分の経験でも、外国語は、うまくできるときもあるし、間違うときもある。次の機会にうまくいくこともある。そうしたものをテストで計ることは無意味。
 例えてみれば、テストは、コトバの能力の、ひとつの「写真」。その人のちからを「写真」を撮影して切り取るようなもの。本人のコトバの能力は流動的なもので、その日は良かったり、別の日は悪かったりと、まずその評価は正しくない。テストは無意味。
 コトバの力は、コミュニケーション。テストは一切止めたほうがよい。
 テストに時間をかけるよりも、外国語で学ぶ際に、面白い内容を探すとか、意味のあるコミュニケーションを求めるとか。そのコトバを学びたくなるような、コトバを楽しく学ぶために、条件を整のえることを考えたほうがよい。
 テストは目的ではない。テストが目的になったら、本来の目的を忘れることになる。
 もし仮にTOEICやらなければならない、TOEFLをやらなければならないとしても、正しく学んでもらいたい。それは、全体的な力を伸ばすこと。テストは無視して、聞く・読むを増やして全体のちからを伸ばしてもらいたい。

 スティーブ・カウフマン氏自身も2007年にLingQを始めたので、これもビジネスと言えるが、多言語話者の実践者であるカウフマン氏の経験談はとても興味深い。また、その主張には妥当性があると思う。

 第一に、カウフマン氏は、多くの言語を学んできたにもかかわらず、これまでテストを受けたことがないという。実際にたくさんの言語を話せる多言語話者のカウフマン氏がテストは必要ないというのは説得力がある。

 氏の方法は、まずなんとしても語彙を学ぶ。大量のリスニング・リーディングを通じて語彙を学ぶ。そしてそのコトバを理解(comprehension)する。大量のインプットを前提としてアウトプットをおこなう。たとえ忘れたとしてもひとつひとつの語彙を学ぶことは全く無駄にならないという氏の考え方に言語の自然のあり方を踏まえたプラス思考を感じるが、さらに完璧主義者でないところがよいと思う。にもかかわらずカウフマン氏の発話はコミュニケーション上支障がない水準であることに驚かされる。

 第二に、他の動画を見ても感じることだが、日本が置かれている言語環境や外国語についての日本人の必要性に関して理解が深いことだ。さらに学習者の興味を考えることが重要であるというカウフマン氏の考え方には納得せざるをえない。

 コトバは覚えて忘れる。忘れては覚える。長い経過であり、そうして学んだ結果としてのコトバの総体である。日本の言語環境において必要性や興味、そして動機を考えても、一斉英語スピーキングテストは必要ないと考えざるをえない。

 第三に、本動画で強調されている、コトバの学びにとってテストで計ることは似つかわしくないという考え方に賛同する。

 カウフマン氏がいうように、スピーキングテストは、学習者のある瞬間の「写真」(スティーブ・カウフマン)に過ぎない。そんな「写真」を撮ったとしても言語能力の実態はわからないと考えるのが普通だろう。しかも、そのようなろくでもないテストのために、(今回のESAT-Jのように)膨大な時間と労力とがかかる。無意味としかいいようがない。

 第四に、カウフマン氏は、テストは止めて、生徒がコトバを学びたくなるような動機づけ、興味づけ、コトバを楽しく学ぶように誘うことが大切だと強調している。この点はとても重要な指摘だ。別の動画でも、テストの考え方は罰を与える(penalizing)もの、もっと脳が楽しく受け止められるような状況・環境をつくることが大切だと強調していた。

 日本の教育は、ともすれば、国の都合、企業や会社の都合、文科省の都合、学校の都合、大人の都合というベクトルが強く、学習の当事者である生徒からのベクトルがきわめて弱い。

 学習はなんのためにあるのか。国のためか。企業や会社のためか。

 生徒・子どものためではないのか。

 外国語の学習は途中で放棄することが多い。なぜか。それは、ひとつには、カウフマン氏が言うように、学習者の興味・関心を軽視しているからだ。学習者の動機を深め強めていないからだ。強制や脅しで学びが継続するはずもないが、それが脳にとって楽しいことであれば継続していくだろう。カウフマン氏は、英語もフランス語も周囲にあるカナダで学生をしていたが、大学で、ある教授からの刺激でフランス語を真剣にやる気になったというようなことを言っていた。それはフランス文化やフランスに興味を持ったからだという。

 だから、生徒の興味・関心を軽視・無視して、テストで脅すテスト主義や完全主義など、真っ先にあらためないといけない悪習である。いま必要なことは、民間試験の導入ではなく、生徒の学習意欲を引き出す学校教育現場の条件を整えることだろう。

 第五に、テストはビッグビジネスだということ。この点も、教育をビジネスの食い物にする考え方がますます浸透している日本の教育にとってまさに考えるべき問題である。生徒のためとうそぶきながら、民間試験の導入は、政治家や企業や会社のためになっていやしないか。

 LingQを開めたカウフマン氏のLingQもビジネスとひとつと言えるだろうが*1、氏の話は、、コトバの学び方として、傾聴に値すると思う。

*1:氏がLingQの広告塔の役割を果たしているにせよ、氏の経験談は大いに役立つと思う。

「辛抱づよく」「成長を信じて」「自分の主人公になって」「コトバを学んでいるその瞬間を楽しもう」(スティーブ・カウフマン)

 外国語学習とはどういうものなのか、深めるために、最近、これまで多言語を学び、実際に多言語話者であるスティーブ・カウフマン(Steve Kaufmann)氏の動画をみて学び直している。

 氏の動画を見ていると、もちろん氏が代表をつとめるLingQの宣伝をするつもりはないのだが、そうしたビジネスの話を乗り越えて、外国語(言語)を学ぶことが心底好きなのだというカウフマン氏の姿勢が伝わってきて楽しい。スティーブ・カウフマン氏に対しては好印象だ。

 わたしの観察では、カウフマン氏は、バランスのとれた、前向きで、楽観的な性格の人格だと思う。

 バランスのとれたというのは、カウフマン氏が、スウェーデン生まれのカナダ移民*1で、おそらく5歳から家庭言語は英語とし、学校ではフランス語を学んだこと。これはまぁ移民であれば普通にあることだろう。学校でフランス語を学び、フランスに留学したり、スペイン語をかじったりドイツ語を話したりと、カナダだから、ここまでは、まぁわかる*2。その後、カナダの政府の仕事を得て、香港にわたり、中国語を学ぶ。このアジアの言語を学ぶあたりから、すこし変わっているというか、あまり聞かない経験をしている印象がある。さらに日本に来て、日本語を学ぶ。中国語学習で漢字をたくさん学んだため、日本語の敷居は低かったという。ロシア語やトルコ語、さらに最近では、アラビア語ペルシャ語等々を学んでいる。氏の学び方は、語彙修得から入って多読・多聴からスピーキングに移行するため目標は日常会話レベルではない。アラビア語ペルシャ語も同様の学び方。この辺になると、LingQというビジネスが関わっているといっても、かなりの変人と言えまいか。氏の話を聞いていると、さまざまな文化にたいする姿勢のバランスのよさが理解できる。外国語オタクというような奇人・変人のような印象もない。家庭をかえりみずという風でもなく、よき家庭人のようだし、バランス感覚に長けている。その辺が好印象なのである。

 外国語学習は、語彙をぽつぽつ拾っていく長いみちのりだが、本動画にあるように、辛抱強く、学んだことは、小さくとも必ずプラスになると、自分の成長を信じて、あきらめることなく学ぶ姿勢。学ぶ際には、自分が自分の主人公になって、自発的に、率先して学ぶ。そして、学んでいるその瞬間、その時間を楽しむ。カウフマン氏の話を聞いていると、今日学んだひとつの語彙も、たとえ、数日後に忘れたとしても、それぞれが糧になるのだという揺るぎないプラス思考が感じられる。学んだものは、ひとつひとつ、栄養になり、力になるという感じだ。

 われわれがよく耳にする、日本にいるから外国語をマスターするなんて無理、日本の学校の英語教育では英語をマスターするなんて無理、留学しなければ外国語をマスターするなんて無理等々。こうしたよく聞かれる神話やマイナス思考はカウフマン氏の口からは全く聞かれない。

 なにしろ多言語主義を地で行っているのが気分がよい。

 以下、スティーブ・カウフマン氏の「言語(外国語)学習に成功するには何が必要か」(What makes a successful language learner?)を紹介する。
 

www.bing.com

What Makes a Successful Language Learner? - Bing video

 以下は、カウフマン氏のお話のあらまし。

 外国語学習は、住んでいる場所や、よい教材がたやすく手に入るか、学ぼうとする言語と自分の母語がどれほど隔たりがあるのか、など、客観的に考えられなければならないこと(objective considerations)があるけれど、主観的要因(subjective factors)もある。

 今日はそれを話してみたい。
 コトバの学習は、劇的にうまくなることはない。だから継続することが大切。そして継続するには、辛抱強く我慢しなければならない。
 読んだり、聞いたり、アプリで学んだり、学びを継続している限り、進歩しているという信念をもつことが大切。辛抱強く信念をもつこと。
 集中的に学習したり、話す機会があれば、たしかに上達は速い。けれども、言語学習に時間を使っている限り、コトバの学びとしては上達する。だから辛抱強くなければいけない。コトバを学ぶんでいるその時間自体を楽しむとよい。
 もうひとつ大事なことは、自分の主人公になる(initiative)ということ。
 わからない統語論や語彙など、むかしと違って、今の時代、ググることができる*3。先生に指示されて学びを開始するのではなく、自分が自分の主人公になって、自発的に、率先して、学ぶことが大切。
 わたしの助言は、それぞれが矛盾することになるかもしれない。けれども、辛抱強く、学んでいるその瞬間を大切にする。誰かの指示を待って、誰かの指示で学習を開始するのではなく、今日はネットフリックスを見ようとか、今日はこの文法項目を学ぼうとか、自分が自分の主人公になって、自分が主導権を握ることが重要。

 コトバの学習は、完璧になることはないし、忘れるし、前に聞いた教材を聞いたらまたわからないとか、簡単には進まない。わからないことに辛抱強くならないといけない。学んでいるその瞬間を楽しむ(just enjoy the moment)。いまやっていることは楽しめるものだし、いまやっていることを楽しもう。

 以上が、カウフマン氏の話のあらまし。

 外国語学習にたいするスティーブ・カウフマン氏の助言は、日本の外国語学習者にたいしても、すぐれた助言と思う。

*1:ティーブ・カウフマン氏の両親はチェコユダヤ人。チェコユダヤ人は家庭ではチェコ語かドイツ語。カナダに移り住んだので、ヨーロッパ語でなく家庭では英語だろうと両親が考えたという。別の動画でカウフマン氏が言っていた。どの外国語でもその言語の優雅なところ(エレガンス)を感じないといけないと強調するこの動画も大変興味深い。【🇩🇪ドイツ語がペラペラになる】20ヶ国語話せる人に聞いてみた❗️ドイツ語と日本語の違いも教えてもらった - YouTube

*2:カナダには英語圏とフランス語圏があり、主流と聞くが、双方のコミュニケーションは、われわれが想像するほど、バイリンガル状況でもないらしい。イギリス語を母語とする家庭にとってのフランス語は、スティーブ・カウフマン氏の話からすると、日本人にとっての英語とそれほどには変わらないという印象を得た。

*3:わたしは使ったことがなかいが、カウフマン氏は、ポッドキャストを聞くためのPocket Castsを紹介していた。あとスキャニングペンについても触れていた。

そもそも日本の外国語教育として、全ての中学生に英語スピーキング「テスト」は必要なのか

 都立高校の入試に使われるという英語スピーキングアチーブメントテストが明日実施される*1

 第一に、この英語スピーキングテストは、入試としての瑕疵が多く、入試として使いものにならないという意味で、入試に使うことは適切ではない。

 当然なことに批判が多く寄せられているのに、いまだに入試にふさわしくないものを入試に使うことをやめるつもりがないようだが、入試に使えないものを入試に使うことに躊躇しないとは東京都はどうなっているのか。小池都知事は大丈夫か。

 英語スピーキングテストは、都立高校の入試に使うべきではない。いまや入試に使うことを止めるという判断しかない。英断をのぞむ。これが第一点。

 第二に、英語スピーキング活動を、なぜ(アチーブメント)テストとして、中学生全員に強制するのか。というのは、スピーキングを評価するというのは簡単なことではない。とりわけ点数化は困難といえる。点数化すれば、生徒と生徒を比較することになる。生徒間を比較するほどの精度の高い点数化ができるとは思えない。だから、8万人ともいわれる全ての中学生に、英語スピーキングの活動を「テスト」するということに反対である。

 中学英語授業で、自主的な、英語スピーキングの授業実践を取り入れることについて、反対しているわけではない。東京都一律でない、励ます評価としての学校単位の評価は可能と思う。授業時間も限られていると思うので、バランス的に、スピーキング以前に、スピーキング以外の他の活動をもっと取り入れて英語全体の理解をすすめるべきとは思うが、反対するものではない。現場の先生に任せればよいことだ。

 結論をいえば、英語スピーキングを、入試に使う、アチーブメントテストをおこなうということに反対なのである。

 以上で、言いたいことは終わりなのだが、ここで考えたいことは、そもそも日本の英語教育として、全ての中学生に英語スピーキング「テスト」は必要なのかということである。(「」をつけたのはテストを強調したいがため)

 その先を問うならば、すべての日本人に英語スピーキング「テスト」は必要だろうか。(「」をつけたのはテストを強調したいがため)

 外国語を習得するには、語彙の習得、リーディング、リスニング、スピーキング・文法の習得・ライティング・文化を知るなど、さまざまな要素がある。またそれは長い道のりである。習熟度は、学んだ量によってさまざまだ。

 スピーキングは、多量のリーディングとリスニングによる語彙修得がなければ、スピーキングはおぼつかない。そもそもスピーキングはむずかしい活動である。外国語は、たくさん話さないと話す能力を身につけることはできない。その上、その対象言語が話されていない言語環境では、話す活動をマスターすることは難しい。流暢な話者をつくるためには、長い時間軸で学習時間量と言語環境をデザインする必要がある。その外国語に学校でどっぷり浸かるエマージョン教育。エマージョン教育でも、理解(comprehension)は十分なので、その言語が話される社会に飛び込むならスピーキングの進歩は速い。しかし、その言語が話されることのない言語環境に置かれたままであるならば、スピーキングでは困難性がともなうと言われている*2。そもそも、日本のような言語環境で、つまり外国語を外国語として学んでいる国で、ここは意見が分かれるかもしれないが、私見では、すべての日本人に英語を話す能力は必要もない。

 これらの問いに否定的となれば、励ます評価は別にして、すべての中学生に英語スピーキング「テスト」は必要なのかという問いが発生する。

 外国語をマスターするという観点からいっても、否ではないか。中学生には、もっと理解のともなう音読も含めてリーディングやリスニングの練習をして英語全体の理解(comprehension)を伸ばしてもらいたいと思うからだ。

 けれども、必要性があるときに潜在能力を顕在化させるだけの基礎力・総合力はすべての中学生に身につけさせたい。外国語教育・学習としてのリベラルアーツの考え方だ。

 むかし読んだもので、文化人類学者の梅棹忠夫氏が、外国語は、調査が必要なときに集中して学び、フィールドワークが終われば、その外国語は忘れてよいと考える。フィールドワークが終わり、その地を離れて、その外国語を維持しようとすれば、ものすごい時間とエネルギーが必要となる。梅棹氏は、そうしてAという外国語を学んでは忘れ、Bという外国語を学んでは忘れて、数多くの外国語に接してきたという経験談を読んだことがある*3

 多言語を学んできた経験談*4を聞いても同じだと感じる。

 必要なときに、集中的に語彙を学び、リーディングとリスニングに取り組み、準備としてシャドーイングでも何でもやって、語彙力をつけたのちに、コミュニケーションが取れる中級者となって、異言語社会に飛び込んで、さらに話す力を伸ばせばよい。こうしたアプローチをとれば、たとえアクセント(訛り)が残ったとしても、コミュニケーションはとれると思うからだ。

 外国語として、その子にとって何語が必要なのか。

 この点でも、当事者である学習者に、せめてどの外国語を選ぶのか、選択させるべきではないか。

 励ます評価は別にして、一律に競争試験として全ての中学生にスピーキング「テスト」を課すのは、現実的でない。

 言語帝国主義(英語主義)の観念をも生徒に与え、精神衛生上もよくない。

 

 イングランドのコトバでしかなかったイングランド語が何故これほどまでに世界に広がったのか。それ自体が問題だ。ひとつは、大英帝国の存在。さらには、1945年以降のアメリカ合州国超大国化による覇権が要因である。
 したがって英語という大言語のもつ侵略性の問題性を考えなくてはならない。
 インドの言語学者であるブラジ・カチュル(Braj Kachru)は、1985年にすでに古典となった同心円モデル(Three Circles model of World Englishes)を提唱した。内側の円(the inner circle)は、イギリス・アメリカ合州国・オーストラリア・ニュージーランドアイルランド・カナダなどで、英語が第一言語であり、母語が英語であり、英語の伝統が存在している円。「外側の円」「拡大する円」に対して英語のモデル・規範を与えている。外側の円(the outer circle)は、イギリスやアメリカ合州国によって植民地化され、もともとは非母語話者に英語が広がり結果として多言語社会をつくられた国々。たとえばマレーシア、シンガポール、インド、ガーナ、ケニア、フィリピンなど、英語が、歴史的経緯から、公用語、または一部を担っている国である。拡大する円(the expanding circle)とは、英語を外国語として学び、英語を国際化の道具にしようとしている国々。中国、日本、ギリシャポーランド等々の国々を指している*5
 日本は、ひとつは地勢的条件から、またひとつには歴史的経緯から、またひとつには、言語政策から、さらには政治情勢から、戦後日本では、外国語教育といわれているにもかかわらず、選択はほぼなく、その外国語とは英語を指すことが多かった。最近では、ますますその傾向が強く、外国語イコール英語という構図は、思考停止状態で認知されているかのようだ。

 そこから、政治的には植民地国でないにもかかわらず、あたかも植民地国であるかのように、「自己植民地化(auto-colonization)」(鈴木孝夫)、従属国的様相を示している。

 一方、主に地勢的条件・歴史的経緯・言語政策から、日本では、外国語を学ぶということが一体全体どういうことか、イメージがわいていないし、どのようにしたらマスターできるのか、理解されていない。

 都立高校の英語スピーキングテスト問題で考えさせられたことは、以下のとおり。

(1)国民の教育権にもとづいた外国語教育をおこなう

 いままでも、これからも、外国語学習はたいせつ。人間教育としての外国語教育をすすめたい。それは、国民の教育権にもとづいた外国語教育でなければならない。国のご都合で外国語教育が考えられてはならない。

 すなわち、植民地主義的・新植民地主義的でない。政治主義的でない。政治権力的・パワーポリティックス的でない。大国主義的・英語偏重主義でない等々。

 日本の言語環境に合った外国語教育の外国語政策をすすめたい。
 明治期、学問の独立を果たした日本。
 実用か否かは別にして、教養としても、役に立ってきた。外国語を学ぶことで視野が広がる。あらたしい文化を知る。多面的人格の形成に役立ってきた。
 学習方法を学ぶこと、学習過程も役に立ってきたと思う。

(2)当事者である子どもの学習権を保障する

 「富国強兵」的人材育成というような国策からのベクトルではなく、子どもの主体からのベクトル(子どもの興味・関心)を重視して、子どもの学習権を保障したい。外国語を身につける、身体化(脳として学習)するには時間がかかるもの。長い道のりが必要。アジアの言語も軽視すべきでない。多言語主義で行くべき。そもそも外国語教育・外国語学習としては選択制を検討すべきではないか。いろいろな外国語を学んだ人間を増やすことは、国策にも合致するのではないか。

 教育・学習活動については、生徒主体で、生徒主導によるプロジェクト重視が今日的。生徒の動機・生徒の主体性をだいじにする。どこまでやるのか、どの分野をやるのか、どんな目的でやるのか、それは個人の選択に任せるのが今日的ではないのか。

(3)カリキュラム作成においては教師の自主編成権を尊重する

 国は、条件整備に努めるべき。外国語教員の研修を豊かにする。選択制の外国語教育にして、教師はファシリテーター的役割をつとめる。

 発達した資本主義国日本。ハイテクジャパンという割には、その学習環境は貧相ではないか。集中的に学習できる、言語環境を装備した学習室を用意することを検討。
 昔のいわゆるLanguage Laboratory をもっと現代化して、教材のサブタイトルが利用できたり、AI、コーパス、CALL(Computer Assisted Language Learning)を活用した図書室が自由に利用できるような学習環境を準備しつつ、外国語教育は、言語教育・人間教育に徹する*6

(4)これまでの日本の教育制度、マインド・学習姿勢を変革する
 学習義務としての外国語教育で、はたして子どもは意欲をもてるのだろうか。 外国語習得ではミスを気にさせない指導方法が大切。生徒は、中途半端な外国語習得状態で中途半端な心理状態におかれている。ストレスもかかえる。完璧主義にならず、励ます評価がたいせつなのに、環境を変えずに、テストを課すことで、子どもの学習意欲は引き出せるだろうか。いまは参加型、プロジェクト型で、楽しんでやる時代。これまでの日本の伝統的ペーパー試験や点数主義、競争主義、能力主義に外国語の学びは全く合わない。過度の競争的テスト主義はもはや時代遅れとなっている。
 その意味では、英語学習にまつわる克服すべき神話がたくさんある。
 たとえば、外国人が日本語を話せるわけがない(裏返せば、日本人が英語を話せるわけがない)という神話。日本語は特殊であるという神話。日本の英語教育は役に立たないという神話。英語を読む(訳読、日本語訳先渡し授業、直読直解)のは英語を話すことに役に立たないという神話。外国語をマスターするにはその外国に行かなければ無理という神話。その外国に行けば誰でも話せるようになるという神話。反論するのははしたないと考える日本のコミュニケーションのやり方。完璧主義。英語を流暢に話すことはエライという差別意識、等々。

 たとえば、外国語のエマージョンが役に立つからといって、エマージョンを持ち込んだ場合、母語の発達が不十分になるリスクがある。早期学習がよいからといって、早いうちに持ち込めば、やはり母語の発達が不十分になるリスクがある。そうした両面をみなければ、おっちょこちょいの誹りを免れえないだろう。

*1:このテストについては、いままでいくつか記事を書いてきた。たとえば、利権的・売国奴的・差別的、なにより教育的でない都立高校入試へのスピーキングテスト導入の中止を求めます - amamuの日記 (hatenablog.com)教育的でない、さらに公平・公正でないスピーキングテストの都立入試への導入はすぐ中止にすべきではないですか - amamuの日記 (hatenablog.com) / 問題の多いスピーキング”テスト”を都立高の入試に導入することは止めて、中学生に、さすが大人は違うと、人としての模範を示してほしい - amamuの日記 (hatenablog.com)

*2:たとえば多言語話者のスティーブ・カウフマン氏によれば、3人のお孫さんがカナダのフランス語によるエマージョン教育を受けたという。エマージョンの学校とは、全教科をフランス語で受ける教育。理解は十分となるが、話すということでは、たくさん話す機会がないために、当然のことながら、課題が残る。友達どうしで、家庭においては、英語を話しているからだ。けれども、理解(comprehension)は十分となるので、フランス語が話されている例えばフランスに行けば、スピーキングは全く問題なく伸びるという。これもまた当然の話だ。以下の動画を参照のこと。Does Language Immersion Work? - Bing video

*3:わたしの経験でもアオテアロアニュージーランドマオリ語を学んだが、今はすっかり忘れている。ただ、先日、YouTubeマオリ語を聞いたら、蘇ってくる気がした。忘れていても戻ってくる感じを経験した。言語学習はまったく無駄ということはないのだ。

*4:最近は、スティーブ・カウフマン氏から学んでいる。氏の経験談から多くのことが学べる。

*5:実際は、アイルランド語が英語によって侵略されたアイルランドを英語国とみるのはあまりに能天気だし単純すぎる。ニュージーランドも、アオテアロアニュージーランドと呼ぶべきマオリ語の問題がある。あくまでも同心円モデルは大枠でしかないことに留意したい。

*6:利権が想定される安易なデジタル化構想、GIGAスクール構想は危うい。基本は、経済でなく、教育、人間教育にその原理を置かないといけない。

「うまく話せるようになるには、たくさん話さないとなりません」「エレガントな言葉の使い方は、ネイティブスピーカーの音声の訛りまでマスターしなくてもできます」(カウフマン)

 流暢に英語を話すことをテーマにしたキース・スピーキング・アカデミー(Keith Speaking Academy)による特別番組。タイトルは、「英語が流暢になる方法」("How to become fluent in English")。

www.bing.com

How to become fluent in English - Interview with Steve Kaufmann from LingQ - Bing video
 キース・オーヘア氏はIELTS英語スピーキング試験対策の人気講師。そのキースさんによるLingQのCEOで多言語話者のスティーブ・カウフマン(Steve Kaufmann)さんへのインタビュー*1。キースさんも現在LingQで中国語を学んでいるという。LingQならびにKeithさんの営業・プロモーションも入っているので、以下、そこは極力省いた。
 内容は、言語学習の大切な点を指摘していて、特に日本の言語環境における英語スピーキングの学びのありよう、話す際の発話の訛りの問題など、われわれにとっても大変参考になる内容になっている。

 以下、カウフマン氏とキースさんとのやりとりのあらましを紹介する。「あらまし訳者注」と記載した以外は、すべて、カウフマン氏とキース・オーヘア氏のやりとりを要約したもの。

 スティーブ・カウフマン氏の成育歴は、言語に囲まれた環境で、スウェーデン生まれだが、5歳のときにカナダに移住。カナダのモントリオールで育ち、母語スウェーデン語は忘れることになる。モントリオールは理屈上英語とフランス語の二重言語の都市だが、1950年代当時はまだ二重言語状態ではなかった*2。カウフマン氏によれば、現在のモントリオールはまさに二重言語状態だが、当時英語話者とフランス語話者との間ではコミュニケーションはとれなかった。カウフマン氏は、フランス語系の学校に通ったが、フランス語は話せなかった。当時の教育法は動詞や助動詞を教えるような伝統的な文法主義だったが、よい先生もいて、大学に進み、フランス語を学んで、フランスに3年間住んだ。フランス滞在のときは、スペインまでヒッチハイクをしていくらかスペイン語を話したこともある。政府のための仕事を得て、香港へ。香港では中国語を学び*3、その後、日本で材木商をした。日本では日本語を学んだ*4。最近の15年間は、LingQを始めたこともあり、最も外国語学習に集中した時期といえる。ロシア語・朝鮮語ギリシャ語・アラブ語・ペルシャ語を学んできた。仕事のために外国語を学んだときもあるが、あれこれ探し求め、違う言語や人間の世界の存在を知ることは楽しいことだと感じている。
 (なぜスティーブ・カウフマン氏がLingQをつくったのかということについては多少の宣伝にもなるため割愛。ただしLingQは語彙に特化した学習方法で、学習者の全く知らない未知の語彙から、知らなければならない語彙、そして既知の語彙というように語彙を整理していく方法であるようだ)
 
 カウフマン氏の考えによると、言語習得においては、文法ではなく語彙が難しいと考えてきた。したがって、lingQでも語彙に重点を置く学習方法を考えた。豊富なリスニングとリーディングをインプットして語彙を学べば、表現語句も文法も修得できる。少なくとも文法の説明が意味をなしてくる。氏によれば、伝統的な学習方法が抱える問題は、最初から文法を学ぶことにある。豊富なリスニングとリーディングがないうちに、たとえ文法を教えても、学習者にとっては興味が湧かないし、インプットが少ないうちは教えた文法項目は実際に役に立たない。多読・多聴をすれば、その語彙は、聞いたり読んだりしてわかる語彙に、そこからさらに使える語彙となって、語彙が増えていく。
 さて流暢とはどの程度をいうのか。スティーブ・カウフマン氏によれば、流暢とは、上手に話せる(speak well)ということで、CEFR*5でB2のレベルをいう。ただし、アメリカ合州国やイギリスの会社で働くには、B2では足らない。けれども、カウフマン氏の考えによれば、B2で十分流暢である。B2レベルのスピーキングは、ミスはするし、時々理解が足りないときもあるし、単語がうまく見つからないこともあるが、会話に入っていけるし、政治や歴史をはじめ広範囲の話題について語ることができる。相手も居心地悪くは感じないし、自分も居心地の悪い感じではない。それがB2のレベル。
 カウフマン氏の推奨する学習方法では、リスニングとリーディングのインプットを豊富におこなってから、スピーキングに移るわけだが、そのスピーキングの水準を上げるには、「とどのつまり、スピーキングは、たくさんしなければ上手にならない」(“Eventually, to speak well, you have to speak a lot!”)ということになる。学習対象言語が日常的に話されていない言語環境の場合は、流暢に話せるようになるための話す機会が少ないために、流暢に話せるようになるのは難しくなるということだ。アイトーキー(italki)などのオンラインを使って週に5日間話したとしても、週に5時間話したとしても、話す機会として十分とはいえない。
 カウフマン氏の考えによると、自然な語句表現(natural phrasing) 、正しい語順(correct word order)は純粋文法より重要であるし、発音より、自然な表現語句や正しい語順が大切である。カウフマン氏の知り合いにスイス訛り(accent)の強いスイス人を知っているが、一般的にいって、彼の使う英語は、イギリス人よりも、ものすごく自然でエレガントで正確である。(キースさんが「多分(彼は)ロンドンですね」との発言に対して、カウフマン氏は、「わかりませんが」とやりとりしていた)
 多言語話者のカウフマン氏にとって、氏の考えでは、(文法や発音よりも)語彙の使用のほうが基本なのである。
 カウフマン氏は「ネイティブスピーカーの音声をマスターしなくとも、エレガントな言語の使い方ができます」(“You can build up elegant use of the language, without necessarily nailing(mastering) that native speaker accent”)という。

 ( あらましの訳者注:IELTS受験のためのスピーキング講師であるキースさんが、IELTSの試験では発音は見るけれど、アクセント(訛り)は評価対象としていない。生徒は気にするが、アクセント(訛り)は重要ではありませんとキースさんがカウフマン氏に賛意を示していたのが印象的だった。)
 カウフマン氏は、いまアラブ語、ペルシャ語を学んでいるが、カウフマン氏がアラブ語・ペルシャ語が話されていないカナダのバンクーバーで、どのように練習しているかというキースさんの質問に対して、氏は、オンライン家庭教師に頼っていると答えた。カウフマン氏が住んでいるバンクーバ―で、アラブ語・ペルシャ語が話される機会は少ないが、イラン人が店主の場合、ペルシャ語で話しかけるという。けれどもやはりそうした機会は多くはないという。カウフマン氏のこれまでの経験では、チェコ語ギリシャ語・ロシア語などを学んだときは、その言語が話されている外国に行って話をした。それが外国旅行の魅力のひとつでもある。ただ、アラブ語・ペルシャ語の場合、バンクーバーでは話す機会は少ない。

   英語はあふれているので、英語の場合は環境が違っている。今はポッドキャストもある。「ハッピースクライブ」(happyscribe.com)*6というのがある。これを使えば、ペルシャ語ポッドキャストのテキストが手に入る。英語の場合は、言うまでもなく、さまざまな分野のポッドキャストがある。そのテキストを入手できれば学習材料に事欠かない。スピーキングは、その言語を話すことのできる環境の場所があればよいが、そうでなければ、オンライン家庭教師を、交換条件で使うか、有料で使うか、それは別にしてオンライン家庭教師の利用となるだろう。
 カウフマン氏によれば、外国語を学ぶ際に、その学ぶ順番は、リスニングとリーディングに初めに取り組むとよいという。初期段階ではスピーキングは取り組まなくてよい。リスニングの取り組みは簡単である。ながらで聞ける。当然理解できないことも多い。そこで聞いた内容をテキストを使って読む。少しだけ理解できる。また聞く。リスニングとリーディングを交互に取り組む。とくに重要な動詞を攻める。基礎ができたら自分の興味関心のある素材に向かう。ネットフリックスでもよい。エピソードがたくさんあるものなら、その世界に入っていきやすい。
 カウフマン氏は、自主独立の学び手であり、学習方法を知ることも重要だという。自分の学びをコントロールすることが重要であるからだ。学びには、自分が主導権を握らなければならない。そのためには自分が何に興味あるのか知らないといけない。教室で教師が教科書何ページからと生徒に教えようとしても生徒が興味を持たないこともある。いまやインターネットのお陰で、自分の興味のあるものを探すことはそれほど難しくない。内容的にも音声的にも、自分の耳にとって心地よい素材を選ぶことが大切だ。自分にとって役に立つものを、そうした教材を探すには、それなりの努力も必要になる。学びには、自分が自分の主人公になって主導権をとることが大切。たとえば、カウフマン氏はLingQをやっているが、単語や語句でいえば、自分にはどのような語句が必要なのか、自分で判断する必要がある。先生が決めることではない。学習段階やタイミングのこともある。自分に必要なものはなにか、自分の弱点はなにか、自分が判断する必要がある。
 文法でもたとえば助動詞など、それまでのインプットが十分で、助動詞に興味をもち始めて、助動詞について学びたいという気持ちや動機づけが大切だ。自分の学びについては、自分が主人公になることが大切ということだ。
 年齢が高くなると外国語学習は難しいという考え方があるが、カウフマン氏によれば、学ぶ際の年齢は関係がないように思うとのこと。どの程度の動機の度合いなのか、いかに自分が自分の主人公であるか、障害になることが多い要因が、興味深い内容が身近にあるのか(たとえば、氏の経験によるとロシア語の場合、たくさんあったという)。これらが大きな要因だという。よくどの言語が好きかと聞かれることがあるけれど、どの言語も楽しい。
 IELTSの受験生へのアドバイスとしては、自分はIELTSを受けたことがないし、むしろキースさんのほうがプロなわけだが、日本の本屋さんで書棚にあった問題集を眺めたことがあり、語彙水準とリーディングの速度が重要だと思った。リスニングとリーディングをたくさんすれば、どれが文法的に正しいかはわかるはずで、実際受けたことはないが、カウフマン氏が受験に取り組むとすれば、テスト対策というより、むしろ英語に関する全体の総合的な力を伸ばしたいという。
 テストの点数が高くても、コミュニケートできない場合もあるわけで、英語の総合力を伸ばすという考え方にはキースさんも深くうなずいていた。

 以上が、カウフマン氏とキースさんとのやりとりのあらまし。

 外国語学習と日本の言語環境との関係を考えるうえでも大変参考になった。

*1:キースさんもスティーブさんも本ブログで紹介したことがある。次を参照のこと。YouTubeで安全・安心・安価に「 なんちゃって語学留学」 ーそのオンライン英語学習時間割を空想してみたー - amamuの日記 (hatenablog.com)

*2:モントリオールは、バイリンガル都市と言われるが、公用語としてはフランス語だけで大半の住民にとって英語はあくまで第二言語という扱いのようだ。

*3:いまやMP3の時代だが、カウフマン氏が中国語を学んだときはオープンリールを使っていたという。まさに隔世の感がある。

*4:別の動画で氏は、継続してではないが9年間日本にいたという。

*5:CEFR(セファール)は、「ヨーロッパ言語共通参照枠」のこと。CEFR(Common European Framework of Reference for Languages)は、もちろん英語に限らない。A1、 A2、 B1,、B2,、C1、C2の6段階に分かれている。

*6:音声をテキストに、動画にキャプションをつけてくれるサービスのようだ。カウフマン氏によれば、最近は、その精度が上がっているという。