「サザン桑田佳祐さん、神宮外苑を憂える新曲 坂本龍一さん遺志つなぎ」(毎日新聞)

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 知りませんでした。

 桑田佳祐神宮外苑を憂える新曲!

「Relay~杜(もり)の詩(うた)」を報じる「サザン桑田佳祐さん、神宮外苑を憂える新曲 坂本龍一さん遺志つなぎ」(毎日新聞)。

 ラジオも聞いたが、語りが上手。

 「もり」を伝える際に、「北杜夫」の「杜」ねというところがいいね。

 桑田佳祐さんの「Relay~杜の詩」(2023)!

 以下は、Huffpostから。

www.huffingtonpost.jp

【karaoke】Dionne Warwick の "Walk On By" (1964)

 戦時も経験した両親と違って、戦後、どっとアメリカ文化が日本に押し寄せてきてからというもの、自分が子どもの頃、アメリカ文化のテレビドラマやポップスが溢れていた。反発を感じていた子どももいたけれど、私のように、合州国の音楽を好んだ子どももいた。それが今や全体として思考停止の状態であることが問題なのだが、問題と感じていないところがさらに問題だ。

 それはさておき、子どもの頃に耳にした洋楽の唄で、馴染みはあるのだけれど、言わんとするところがよくわからない唄というものがある。

 自分にとっては、Dionne Warwick の "Walk On By" (1964) もそんな中の一つだ*1

Walk on By (1964)

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 題名にも用いられて繰り返される "walk on by" が実はよくわからない。walk on や walk by なら馴染みもあるが、walk on by となるとさてピンとこない。walk も on も by も基礎語彙なのに、イメージがわかない、こうした「句動詞」(phrasal verbs)は、われわれの苦手とするところだ。

 今回初めて "Walk on By" をカラオケで歌ってみてイメージがつかめた*2

 未練の残る別れた彼氏に街で出会ったら、私のことなんて無視して立ち去っていって、あなたとの過去を思い出したくないからという女心。女性の傷心と自尊心の唄だったのだ。

 別れた男女の女心なんて今どきの唄ではないかもしれない。アレサ・フランクリンの "Respect" のほうが断然いまどきの唄だと思うが、いずれにせよ、これが流行っていた頃自分は子どもだったから、そんなメッセージがわかるはずもない。

 以下、今回訳してみた拙訳。

あなたがもし街で 通りを歩いている私を見かけたら

そして お互いを見かけたそのたびに 私が泣きだしたら

そのまま立ち去っていってよ

そのまま立ち去っていって

 

私の涙は 見なかったふりをしてね

悲しみに沈む私は ほおっておいて

なぜって あなたを見るたびに

心が折れて 泣いてしまうから

 

行ってちょうだい(立ち止まらないで)

行ってちょうだい(立ち止まらないで)

行って

 

あなたと別れたことから 立ち直れないのよ

だから 私が傷つき 悲しそうに見えたら

行って

立ち去っていって

 

くだらない虚栄心 残したものはそれくらい

だから 見ないで

あなたがくれた 涙と悲しみ

あなたがさよならと言ったときの 涙と悲しみ


もう行ってよ、行って(立ち止まらないで)

行って、私の涙は見ないで(立ち止まらないで)

もう行ってよ、行って(立ち止まらないで)

行って、私の涙は見ないで(立ち止まらないで)

もう行ってよ、行って(立ち止まらないで)

行って、私の涙は見ないで(立ち止まらないで)

もう行ってよ、行って(立ち止まらないで)

 

 語彙的な説明を加えるなら、walk on の on はもちろん「継続」をあらわしている。「歩き続けて」ということだ*3。"walk on" はポピュラーな表現だ。そして、by は、「そばに」ということ。黒人霊歌のスピリチュアルズである"Down by the Riverside" 、"Puff, the magic dragon, lived by the sea"("Puff")、"Under the boardwalk Down by the sea"("Under the Boardwalk")というように、唄にもよく用いられている。「近くに」といえば、by のほかに near も思い出されるけれど、"by the sea" と "near the sea"の違いを言えば、by のほうが身近な近さを言い、near は、そんなに遠く離れていない近くにというニュアンスがある。nearよりも by のほうは見える近さなのだ。だから、曲名にもなっている "walk on by" における彼女と彼氏との距離は、まさに「そば」の、見える距離にあるといってよい。彼女に見えている元彼に、「行ってよ」「そのまま立ち去ってよ」(walk on by)と言っているのだ。私のことなんか無視して立ち去ってしまって、あなたとの過去なんか思い出したくないからと言いつつ、未練がないわけではないということなのだろう。

 さて例によってこのポップスも次のように韻を踏んでいる箇所がある。

street / meet  

believe/ grieve

cry / by

you / blue

pride / hide

goodbye / by

 ディオンヌ・ワーウィックの「ウォークオンバイ」は、ローリングストーン誌の 「偉大な500曲」("The 500 Greatest Songs of All Time) "の 第51位に選ばれている。

www.rollingstone.com

 ハル・デイビッド(Hal David) の 歌詞に、今年2月に亡くなったバート・バカラック(Burt Bacharach)が作曲したもので、ディオンヌとの3人トリオはまさにゴールデンコンビだ。

 以下は、参考までに「ディオンヌ・ワーウィックの「ウォークオンバイ」がもつ10もの魅力」というビルボードからの記事をあげておく。

www.billboard.com

*1:Walk on By (song) - Wikipedia

*2:観客と掛け合う(call and response)1965年のライブ版dionne warwick walk on by - Bing video

や walk on by のニュアンスのよくわかるダンス付きのテレビ版もある。dionne warwick walk on by - Bing video

*3:Neil Young の唄で"Walk On"(1974)というのがある。U2にも"Walk On"(2001)というタイトルの唄がある。

【karaoke】お小遣いで買ったエジソン・ライトハウスのドーナツ盤「恋のほのお」(1970)

恋のほのお(1970)

 英語学習の基本練習としてカラオケをすすめているのだが、今日のおすすめは、1970年の懐メロ。10代に向けたバブルガムミュージック(bubble-gum music)・バブルガムソング(bubble-gum songs)の典型なんだけれど、エジソンライトハウスの「恋のほのお」(Love Grows Where My Rosemary Goes)という一曲。

 大昔に流行った唄だけれど、この頃、自分は、洋楽のドーナツ盤をお小遣いで買っていた。たしかこのエジソンライトハウスの「恋のほのお」もお小遣いで買った一枚。唄の中の "mystery" の発音の仕方が「ミステリー」でなく、「ミスタリー」と発話していたことが強烈に印象に残っている。

 当時、全英シングルチャートで1位。合州国ビルボードでは5位に輝く世界的ヒットとなったが、最近、Tik-Tokでリバイバルヒットとなったようだ。

 ポップスやロックの唄を聞いて最近大切だと思うことは、なんといっても「評価」のこと。多くはしょせん流行り歌だから、評価しすぎないことが肝心ということだ。批判的に「評価」することができなければ、英語なら何でもありがたがるという従属的な姿勢となってしまう。

 「恋のほのお」は、しょせんバブルガムミュージック、バブルガムソングなのだと、突き放して「評価」する姿勢が肝心だ。

 そのことを強調したうえで、とりあえず、拙訳を書いておこう。

お金なんてないし

洋服はちょっと変だし

髪の毛だってかまわない

でも、彼女を想う気持ちが高まるんだ 僕のローズマリーを見るときね 誰もわかっちゃいないけど わかってるのは僕だけなんだ

 

ちょっとゆったり喋るし

変人だよ彼女はと みんな言うし

彼女の暮らしっぷりは不可思議だし

でも、彼女を想う気持ちが高まるんだ 僕のローズマリーを見るときね 誰もわかっちゃいないけど わかってるのは僕だけなんだ

 

ほんと まいっちゃうよ 彼女が僕の手を握るとね

ほんと 素敵な感じで 「ねぇ」って言ってしまう

ほんと 彼女には魔法のおまじないがあって

それがほんと効いちゃうから もう離れられないんだ

 

僕は幸運な奴で

きちんと言わなくちゃ 彼女に

君を永久に愛すからと

なぜって 彼女を想う気持ちが高まるんだ 僕のローズマリーを見るときね 誰もわかっちゃいないけど わかってるのは僕だけなんだ

 

彼女がいれば愛は育っていく 誰もわかっちゃいないんだ 僕だけなんだ

もし彼女を見たら 彼女を忘れるなんてできないよ 誰もわかっちゃいないけど 僕だけなんだ 見たらわかるよ 誰もわかってないんだ 僕だけなんだ

 

 もとの歌詞は以下にある。

Edison Lighthouse – Love Grows (Where My Rosemary Goes) Lyrics | Genius Lyrics

 歌詞のなかのいくつか、は以下のように韻を踏んでいて調子がよい。

money/ funny

grows  /  Rosemary  / goes  / knows/ 

lazy  / crazy

me / free

mine  /  fine 

spell  /  well

say / hey / away

 とくに、Love grows where where my Rosemary goes and nobody knows like me と繰り返される行では、 grows / Rose・(mary) / goes / knows と韻を踏んでいて、ゴロがよい。

 また、次のような口語表現も使われている。
ain't got no~(~なんてない/ ~なんてねえ) /  kinda =kind of (なんか/ちょっと/まぁ)/  gotta =have got to(~しなければならない/~しなきゃ)/  work well(うまく効く) /  can't get away(逃れられない/ 離れられない) / There's something about ~(~にはなにか貴重なものがある/ 大切なものがある) / fella (奴)/  've just got to do something (~しないといけない)/

 3分にも満たないポップスで、スピードは、89 WPM(words per minute) ほど。"There's something about her hand holding mine" のところだけが、少し早く感じるかもしれない。'She ain't / got no / money' で始まるタッタ、タッタ、タッタという強弱のリズムを学んでほしい。バブルガムミュージックといえども、構成上、よくできた唄だ。

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  実は「エジソンライトハウスというバンドは存在していなかった」(Edison Lighthouse didn't exist)という話は以前聞いたことがあって、オフィシャルビデオとされる上記のビデオに映っているのもトニー・バロウズ (Tony Burrows) 本人ではない。

 最近知った "Todd in the Shadows"というサイトがあって、これがでっちあげられたバンドであるエジソンライトハウスについて詳しく触れていて、とても面白かった。"Todd in the Shadows"には、いくつかのカテゴリーがあるのだけれど、一曲だけのヒット曲("One Hit Wonderland")というカテゴリーがあって、この「恋のほのお」もその中で解説していて、いろいろとためになった*1

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 たとえば、サンフランシスコのヒッピーたちが世界の社会に影響を与えていた頃に、音楽業界ではビーチボーイズなど流行っていたものをパクりつつ、セッション・ミュージシャンであったイギリス在住のトニー・バロウズ (Tony Burrows) が、バブルガムミュージックに歩調を合わせるかたちでヒットを当てたのだが、当時のイギリスは、ビーチボーイズの活動拠点地であるロサンゼルスとヒッピーの活動拠点地であるサンフランシスコとの区別も意識的ではなかったという話。

 またRosemary という女の子の名前も、ローズマリーというポピュラーなハーブもあるから、love growsというイメージに合うという話。

 驚いたのは、10代の自分が強く印象をもったミスタリー(mystery)の発音についてもトッドは言及していたこと。

 ほかにもあるが、この辺にとどめておこう。

 

 「恋のほのお」は、バブルガムミュージック・バブルガムソングであることを意識しておけば、カラオケの練習曲になるだろう。

 また、最近Tik-Tokで「恋のほのお」がリバイバルヒットをしたということにも深くうなづけるに違いない。

*1:"Todd in the Shadows"による"Love Grows"の話は、総語数3600語ほど。21分くらいの長さなので、170WPMくらいの早さで話されている。

「…人類の歴史は、…“ヒバクシャ”の範囲がますます拡大し、多様になり、ついには全人類におよんできた歴史」(芝田進午)

 今日はヒロシマに思いをはせる日である。
 41年前の1982年3月29日から4月2日。国連大学主催の国際シンポジウム「世界の地理的―文化ビジョン」がイギリスのケンブリッジ大学で開かれ、文化史・文化論の研究者が12か国から参加し、日本からは哲学者・故芝田進午氏(当時広島大学教授)が出席し報告した。

 報告を練る際に芝田氏が心をくだいたことは、いかなる学術用語・基本概念・キーワードを使うかということだった。
 シンポジュウム提出論文(英文)で使った基本概念、シンポジュウム口頭報告で解説し国際語として普及することを氏が望んだ用語こそ「ヒバクシャ」(Hibakusha)という日本語であった。

 芝田氏の問題意識の核心は、「核時代のはじまり以来の人類の歴史は、原爆犠牲者としてうまれた“ヒバクシャ”の範囲がますます拡大し、多様になり、ついには全人類におよんできた歴史であり、またこのことが認識され、自覚されてきた歴史である」という点にあった。

 すなわち、いまや地球上の人間はすべて“死の灰”を身体のなかに吸収させられており、その遺伝的影響を予測できないこと。すでに全人類はいまや潜在的被曝者になっているという視点である。芝田氏は、シンポジュウム報告の際に「あなた方やあなた方の家族もすべてヒバクシャなのだ」と喝破された。

 氏は「ボード…をつかい、片仮名で“ヒバクシャ”、ローマ字で”HIBAKUSHA”と横書きし、ついで板書によってその意味する範囲をつぎのようにしめした」。(「被爆者」は「核という火の暴力」により、また「被曝者」は「核によってつくられた日の暴力」により殺され冒涜された人びとと区別した点に留意)

「核時代Ⅰ 思想と展望」芝田進午(1987)

Ⅰ 被爆者(ヒバクシャ)

a 原爆で殺された死没ヒバクシャ ― ヒロシマナガサキにいた日本人にくわえて、両市に移住ないし強制的に連行させられていた朝鮮人、中国人、その他のアジア人、ならびにアメリカ人、イギリス人、オランダ人、等の捕虜をもふくむ

b 原爆地獄から奇蹟的に生きのこった生存ヒバクシャ  ― 右に(引用者注:原文は縦書きであるためこの引用では「上記に」の意)同じ。約四〇万人の日本人のほか南北朝鮮に帰国した朝鮮人、祖国に帰国した中国人、インドネシア人、等、および北米に移住した日系アメリカ人、カナダ人、等のヒバクシャをふくむ

c 被爆二世・三世

 

Ⅱ 被曝者(ヒバクシャ)

a アメリカ・イギリス軍の兵士ヒバクシャ ― ヒロシマナガサキに進駐し、放射線に汚染されて、原爆病になったとみられる兵士たち

b 核実験によるヒバクシャ ― 第五福龍丸乗組員をはじめとする日本人ヒバクシャ、ビキニ環礁ネヴァダ、等をはじめとする中部・南部太平洋、アメリカ大陸の住民たち(ソ連・中国、等にも存在する)

c 核実験に参加した兵士ヒバクシャ ― アメリカだけで約五〇万人と推定される

d ウラン鉱山、ウラン・プルトニウム精錬工場の労働者ヒバクシャ

e 原発労働者

f 他の放射線によるヒバクシャ ― 核実験、原発事故、核燃料サイクルに由来する放射線によるヒバクシャで、死産になった“死にすぎた赤ん坊”ならびにすでに死んだ、あるいは死につつある“成人ヒバクシャ”をふくむ

 

Ⅲ ヒバクシャ

a 全人類 ― 核実験による死の灰原発による放射性物質を身体のなかに吸収してしまった潜在的被曝者(ヒバクシャ)としての全人類

b 全人類 ― 核戦争による絶滅でおびやかされつつある可能的被爆者(ヒバクシャ)としての全人類

(芝田進午「核時代Ⅰ 思想と展望」青木書店 p.68~p.69 1987年)

 岸田首相は、広島出身であり、広島を選挙区にしているにもかかわらず、核抑止論に加担し、みずからの履歴を政治的に利用して、ヒロシマ大義・人類の大義を裏切った。岸田首相は、核兵器国におもねり、核の傘のもとで、さらにNATO北大西洋条約機構)に一歩踏み入れようとしている。広島出身者として、日本人として、憲法を擁護すべき政治にたずさわる者として、指導者として、これらのことは何重もの意味で断じて許されることではない。

 芝田氏は、「”ヒバクシャ”という人間存在の意味を日本人として国民的に自覚すること、その言葉を国際的に通用させ、人類的意識にたかめること、このことなしには、人類は”ヒバクシャ”という人間存在であることから解放されないであろう」(同書 p.75)と喝破されている。

 現在に至るまで、日本は、核廃絶というヒバクシャの切なる願い・ヒロシマ大義と人類の大義を裏切って、核兵器禁止条約に批准していない。

 ”ヒバクシャ”という人間存在であることから人類が解放されるためになすべきことは明らかである。少なくとも核兵器禁止条約に背を向けることが許されないことは明白である。

はじめて DeepL と Bingチャット をつかってみた

 雑誌では、ChatGPTなどAIの特集が眼につくようになってきています。

 不勉強でChatGPTはまだ試したことはないのですが、最近の自動翻訳の精度は60%や70%のでき具合だと聞いたので、数日前にDeepLなるものを初めて使ってみたら、驚いた。まさに一瞬にして、日本語を英語にしたからだ。ただし、その出来具合は、印象に過ぎないが、やはり60%から70%という感じがした。

 ・たとえば人をからかうという意味で「いじる」という日本語が入っていた例文だったのだが、「(人をからかう、人にちょっかいを出すという文脈での)いじる」が「機械をいじる」と混同し混乱がみられた。

 ・過去形・現在形など、時制での間違いが見受けられた。

 ・すでに訳している箇所が付記されて重複が見られることがある。これは一度ならず、数度生じていた。

 ・「彼」と「彼女」など、代名詞の混乱が見受けられた。

 ・もともとの日本語文のあいまいさから生じていることだと思われるが、複文など複雑な文や節の場合、どちらの文や節が重要なのか、AIに判断を求めるのは酷だと感じた。

 AIにあたかも感情があるかのように感じることがあるが、もちろんAIに感情があるわけではない。AIはビッグデータから引っ張ってくるので、そこそこの訳ができる。ただし、全てを信頼するわけにはいかない。AIが本当のような顔をしてまことしやかにウソをつくというのは、本当だ。

 シリーズものの映画「釣りバカ日誌」の中で、脳裏に残っている映画の一場面*1が、はて何作目だったのか、Bingチャットを使って調べてみたら、18作目だと教えてくれた。自信たっぷりのその回答ぶりと速さに驚きつつ、「釣りバカ日誌」の18作目を早送りで見てみたがこれが全く見当たらない。

 今一度、Bingチャットに聞いてみることにした。

 18作目のどのあたりと聞くと、再び18作目のここにあると、まことしやかに答えてくれる。はて、Bingチャットが答えてくれたような場面はあったかしらと疑問に思って思い直して考えてみたら、19作目であることを思い出し、19作目を見てみたら、自分の脳裏に残っていた一場面があった。

釣りバカ日誌19

 AIは、本当のような顔をしてまことしやかにウソをつくというのは、本当だと実感した次第。

 これからの教育では、ウソに騙されないちから、すなわち批判的思考力、さらには文学性が大切になってくると思う。昔から言われていることではあるけれど。

 わたしの世代は、英文法が教科*2として教えられた世代で、名詞ひとつとってみても、普通名詞、固有名詞、集合名詞、抽象名詞と、詳細にマニアックに教わったのだが、AI自動翻訳機の時代であればこそ、いよいよ英文法のちからが必要になってきたと感じる。

 ロジャー・パルバース著、上杉隼人訳「英語で読み解く賢治の世界」によれば、著者は宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の「マケズ」を Strong と訳されました*3

英語で読み解く賢治の世界

 その訳者である上杉隼人氏のブログの「ChatGPTの日英翻訳に挑戦  ー人間はAIに勝てるか?」が面白かったので、以下紹介しておく。

blog.goo.ne.

 「機械的な日英翻訳であれば、今はChatGPTなどAI翻訳で対応できるかもしれない。だが、人間の心からの喜びや悲しみを別言語に移すのは、まだしばらく人間の仕事」との意見を上杉隼人氏は述べ、「「まずAIに訳させて、それに修正をかける」という人も少なくないようだが、それではAIが最初に作り出した構文や表現に引きずられてしまう」(上杉氏)ため、氏は以下をすすめている。

日英翻訳においては「まず自分で訳す」→「ChatGPTに確認してもらう」→「自分で調整する」→「信頼できる人間のネイティブスピーカーに確認してもらう」→「自分で再調整する」の工程が必要だ。

    ということで、学びの主体性を確立するためには、やはり地道な学びが必要となるということですね。

*1:具体的には、身分証明書カードのITルームキーで自らの会長室に入室できない鈴木会長が気分を害して会社から帰ろうとする一場面。

*2:「英語B」として「作文文法」を習った。教科書は、”A Better Guide To English Usage” 著者は、安井稔・吉富一・中島敏雄・大脇新平。

*3:「この美しい祈りのような詩は、「…マケズ」と否定形で始まります。この「マケズ」を文字通りに訳せば、unyielding(屈しない)とか、not giving in to (負けない)となるかもしれません。しかし、unyielding to the rain や not giving in to the rain としてしまうと、なんだか弱い感じがしますし、このようなことばで詩を始めるのは効果的ではありません。そんなふうに訳してしまいますと、詩にならないのです。さらに言いますと、正確な翻訳とは、原文のニュアンスを余すところなく伝えるものだとすれば、unyielding to the rain も not giving in to the rain も十分な翻訳ではないと思います。(改行)日本語と英語は、言語構造がまったく違います。翻訳するときには、辞書を引いて、ただそれに相当する訳語を置き換えてやればいい、というわけではありません。翻訳はそんな単純な作業ではなく、大きな冒険なのです」(「英語で読み解く賢治の世界」p.7)

マイナ保険証問題:もはや「これまでですな」(室戸半兵衛)<映画「椿三十郎」>

 岸田政権が、安倍政権以上に、次から次へと悪法を通し、悪政を継続しているのは、実に驚くべきことだ。

    まずヒロシマを利用して核抑止論を是認したことは、とりわけ被爆国の首相として許されざる政治的行為であり、ヒロシマへの冒涜として長く語り継がれなくてはならない。ロシアのウクライナ侵略が許されないことは当然のことだが、危険回避が政治の役割であるのに、危険性のあるNATOへの一方的肩入れに踏み込もうとしていることは、日本の安全・安心を阻害しつつある。

 アメリカ合州国のポチよろしく2倍の防衛費という大軍拡の推進、危険な敵基地攻撃能力の容認、軍事産業の礼讃は、戦後日本のあり方(平和憲法体制)を大転換させるもので到底容認できない。さらに入管法改悪、LGBTQ法、インボイス導入等々、そして、来年2024年秋に*1従来の保険証の廃止を決定した、いわゆるマイナ保険証問題。

 来年2024年秋にこれまでの保険証の廃止をしてマイナ保険証に一本化する決定は、自民党公明党日本維新の会*2・国民民主党によって強行採決された。

 悪政の限りを尽くし、ここに来てのマイナ保険証問題は、映画「椿三十郎」でいえば、「もはや「これまでですな」(室戸半兵衛)」という気がしてならない。

椿三十郎

 というのも、ハードウェアのリーダー機械による読みとりがまずいなど、さまざまな理由から、マイナ保険証を使っても資格確認ができない不具合が報告されている。現在の保険証を同時に持参している件数が多いことから現場がなんとか対応できている始末…。

 30秒も静止させられる顔認証の認証がうまくいかない。顔認証の機械が悪いのか、画素数低い写真で登録したことが悪いのか、いずれにせよ、本人確認ができず使いものにならない。あるいは誰でも顔認証ができてしまうというカードもあるという。

 さらに暗証番号が必要というハードルの高さ、めんどくささ。

 保険料をきちんとおさめているのにもかかわらず、資格確認ができないから、持参したマイナ保険証では無効といわれ、診療に10割負担を強いられる理不尽さ。

 保険証はもとより、マイナンバーカードに、運転免許証や、母子手帳や、あるいは大学入室許可証など、なんでも紐づけしようとして*3一枚で済まそうとしているが、いまは現行の保険証(本物)をバックアップとして持参しているから対応してもらえているが、こうしたバックアップ(本物)がなくなったら、マイナンバーカードという使いものにならないカード(偽物)以外の何でバックアップにできるのか。考えるに空恐ろしいものがある。 

 ここで思い出すのは、役所になかなか電話がつながらず、オンライン申請をネットでやってくれと言われてもネット環境のないデジタルディバイド被害者ともいうべきケン・ローチ監督の「わたしは、ダニエル・ブレイク」だ。

わたしは、ダニエル・ブレイク

 あるいは映画「釣りバカ日誌19」。

 「釣りバカ日誌19」の冒頭には自分の身分証明書(カードキー)で自分の部屋である会長室に入れない鈴木会長が怒って帰ろうとする場面がある。ロビーで「なんで私の身分証明書でカギを開けなければいけないんです。ここはわたしがつくった会社なんだよ」と怒鳴る鈴木会長(三國連太郎)に対してカードキーの導入は避けられないと怒りをしずめていただくよう新社長が会長にお願いする場面だ。

釣りバカ日誌19

 現代では、こうしたテクノストレスに無縁の人は皆無だろう。マイナカードはその最たるものであり、最も危険なものではないのか。

   いま出されているマイナ保険証の問題は、本人確認ができない、資格確認ができないという、こうした一次被害だけではない。

 なぜ使えないのかという二次被害や他人の情報で治療にあたられるという医療の安全性を阻害する二次被害に発展する可能性がある。2割・3割という窓口負担割合の間違いに対する対応や、すぐに治療を受けられない被害をはじめ、医療現場は、ただでさえ忙しいのに、全く無駄な対応を強いられる。たとえば、コールセンターにつながらない。保険組合に連絡が取れない。またあらたに設置した高額な読みとり機械に対する心配も増える。最悪なことは、他人と紐づいた医療カルテとの取違えからくる誤治療・誤施術など、不要な医療事故の危険にさらされることだ。医療をおこなう現場も医療をうけようとする受診者も双方が被害者だから、被害者と被害者の混乱から、受診者も医療現場も実際の苦労と心労は増えるばかりだろう。
 厚労省アンケートですら、メリット実感なしというアンケート結果は当然のことだ。
 これらは、マイナ保険証使用者がまだ6%に過ぎないともいわれる中で*4生じていることで、今後増えることはあっても減ることはないだろう。
 マイナ保険証は、受付で障害が生じるだけでなく、適切な医療が望めない、健康と命を害する可能性のあるポンコツ制度と言わなくてはならない。

 そもそも、一言号令で、従来の紙の保険証をマイナ保険証にかえるというが、これはシステムの大転換だから、膨大なエネルギーと膨大なコストがかかる。公務労働者にも、膨大な負荷がかかる。

 新美南吉の「おぢいさんのランプ」は、ランプから電気に変わろうとしている時代に、主役の座を電気に譲らざるをえなくなったランプを池の縁の木にぶら下げて火を灯し、泣きながら石を投げつけてランプを割る悲しい話だが、マイナカードは、立派に使える本物の保険証をニセモノともいうべきマイナカードが追いやる話としか言いようがない。

 マイナ保険証地獄は人災に他ならない。

 あらためて言うが、すべての国民が公的医療保険に加入するという、日本の公的医療保険国民皆保険制度は世界に誇れるものだ。戦後営々と作り上げてきた国民的共通財産である。国民健康保険・健康保険・共済組合・後期高齢者などの健康保険証で安心して医療が受けられる。暗証番号など不要だ。しかしマイナ保険証では、有資格者なのに無資格扱いとなる可能性があり不利益変更にほかならない。

 では、こんなずさんなマイナ保険証をなぜ中止しないのか*5

 これは総務官僚の天下り先にもなるNTTコミュニケーションズNTTデータNEC富士通日立製作所などITゼネコン利権*6がからんでいて、従来の紙の保険証をマイナ保険証に切り替えるだけでも、膨大なエネルギーと国民の膨大な税金をはじめとするコストが必要とされ、独占となれば、ビジネスをゼロベースから生み出し、底なしのビジネスモデルに、つまりICチップに底無しのうまみを見て、そこに底なしの儲けが生まれるからだろう。

 そもそも国民がもっている重要な情報を民間業者に預けてよいのだろうか。さらに、なんでもかんでも紐づけするというマイナンバーカードは、疑ってかかるべきものではないのか。本音は国民の情報がほしいということなのではないか。そんなものが国民のためのものであるはずがない。「ICチップの「拡張利用領域」への入力や管理システムの構築は、総務省地方公共団体でつくる」地方公共団体情報システム機構(J-LIS)が「「マイナンバーカードアプリケーション搭載システム導入事業」として、ほぼ独占受注している」(Business Journal)。国民のためのものでないことは、利用規約*7ひとつとってみても、わかるのではないか。むしろマイナンバーカードは、国民支配のためのものであり、ITゼネコン利権のためのものであることに留意すべきだ。単純に考えても、ひとりひとりの大切な個人情報が漏洩されたり、その結果、悪用されたりする危険性がマイナンバーカードには存在するだろう。リスク管理としての解決法は簡単。廃止である。

 20000ポイントというアメや、保険証を人質にしてのマイナ保険証などのムチをみても、その政策のいかがわしさは言うまでもない。

 しかし、これほどポンコツとは思わなかったというのも為政者の本音という気もする。そもそも登録も丸投げ、「総点検」*8も丸投げというITリタラシーの低い為政者は、現場の意見を聞かず命令だけすればよいと思っている節がある。そして、いまや、退くも地獄、進むのも地獄ということになってしまったのだろう。

 支配権力が倒れるときの要素・原因を考えてみると、まず矛盾の拡大があげられる。矛盾が深刻である。そしてその矛盾を広げなければ、倒れることはなかったという歴史的教訓は少なくない。

 さて、今回のマイナ保険証問題は、どうか。

 これは、全国民を敵にまわしたのではないか。地方自治体や公務労働者、各知事も敵にまわしたのではないか。権力支配自体の困難さと反対運動の活性化は必至だろう。

 従来の保険証でなんの問題もないのに、国民の健康と命をないがしろにして、利権にむらがり食いものにしてしまった。 国民個人はマイナスだけの人権侵害を被るだけだ。医療労働者、公務労働者への被害も甚大なものになるだろう。したがって、反対団体・反対組織も反対個人・反対市民も、増えることはあっても減ることはないだろう。

 政権内でも、亀裂が生じることは必至である。河野デジタル大臣・岸田首相の失墜を狙ったキングメーカーの思惑とも取り立たされているが、国民の怒りは予想以上になるだろう。今後多分、対応策として妥協案もさまざま出されるだろう。けれども、マイナカードをめぐる政権が抱える矛盾を政権自身が解決策を見つけることはないだろう。大切なことは、デジタル大臣や首相の退陣だけにとどめてはならないということだ。

 黒澤明の「椿三十郎」について、以前次のように書いたことがある。

 黒沢明の「椿三十郎」(1962年)は、俺の好きな映画だ。
 黒藤(志村喬)と竹林(藤原釜足)の汚職に、井坂(加山雄三)ら若侍たちが憤慨して決起し、井坂の叔父でもある睦田城代家老伊藤雄之助)のところに意見書を届けにいくが、破り捨てられてしまう。次に井坂が大目付の菊井(清水将夫)のところに行くと、菊井は、城代家老の対応とはうって変わって、城代家老の慧眼を恐れて、「この際あなたたち若い人たちとともに立ちましょう」と、若侍たちの決起を励ます。映画の冒頭で、若侍たちの密談で、井坂がこう報告すると、若侍たちは勇気づけられて喜ぶが、その話をたまたま聞いた素浪人・椿三十郎三船敏郎)は、側聞からの推測にすぎないのだが、誰が本当の悪人で誰が味方なのか、当事者でないほうがよくみえると、全体構図を分析してみせる。菊井のほうが悪い奴で、睦田城代家老のほうが本物ではないかというのだ。腕っぷしも相当に強いのだが、椿三十郎の強みは、こうした観察眼と洞察力の鋭さにある。
 こうして観客は、映画の冒頭で、難なく全体構図を理解してしまうのだが、「悪い奴ほどよく眠る」(1960年)と同様、映画の冒頭から全体構図を示してくれるのは、黒沢映画がわかりやすく面白い理由のひとつだ。

 立憲民主党良識派と、れいわ、社民党日本共産党ら革新勢力と市民が国民的大運動を呼びかけ大同団結することにしか展望はないだろう。政権維持のため、そして大増税を推し進めるため、政権側によるあっと驚く政界再編もあるかもしれない。野党勢力においても分裂がある可能性もあるが、騙されないことが肝要だ。

 今回のマイナ保険証問題は、政党においても、個人においても、ホンモノかニセモノか、あぶりだしてしまった。

 「椿三十郎」のように、われわれも「観察眼と洞察力」を鋭くする必要がある。

*1:マイナ保険証にたいする国民的批判から時期を遅らせる可能性があるが。

*2: 杉尾立憲民主党参院議員によれば、「私はなんでもかんでも個人情報を紐づけしたくはありません」と委員会で発言した際に、日本維新の会の猪瀬元東京都知事は、だから立憲はダメなんだとヤジを飛ばしたという。杉尾氏は、維新は自民党よりマイナンバーカードに前のめりだという。

*3:現在、マイナポータルで、29の紐づけができるようになっており、今後増やす計画になっている。

*4:マイナンバーカード取得者が7割。そのうちの7割がマイナ保険証を取得していると言われている。そのうちの実際の使用者はさらに割合が低く、現在6%くらいということなのだろう。いずれにしても、初動段階でのさまざまな不具合というのが実態であろう。

*5:私生活において週刊誌ネタになっている木原誠二官房副長官も中止にするつもりはないとのTVインタビューが報じられている。たとえば、木原誠二氏、保険証廃止方針の変更は「ない」 テレビ番組で発言 | 毎日新聞を参照。

*6:たとえば、マイナカード利権、総務省の外郭団体が一社独占受注…高額な費用見積もり提示を参照のこと。またたとえば、全商連[全国商工新聞] マイナンバーで潤う?! 大企業・官僚・自民党 利権まみれの制度を参照のこと。

*7:たとえば、政府は「一切の責任を負わず」? マイナポータル利用規約に疑問の声:朝日新聞デジタルを参照のこと。

*8:2023年の秋までに総点検すると命令が下ったが、これは不可能という見通しが専門家のもっぱらの判断であり、推進組織も認めている。

ジョン・フォガティのアルバム「遥かなる旅路」('The Long Road Home') (2005)

 Spotify, Apple Music, Amazon Music Unlimited など、もはや音楽を聴くのはサブスクライブの時代といわれる中で、これまでレコードやCDを集めてきた者としては淋しい気持ちで、少しずつ処分を始めているのだが、久しぶりに2枚CDを購入した。

The Long Road Home(2005)

Centerfield(1985)

 "The Long Road Home"(2005)と"Centerfield"(1985)。

 いずれもJohn Fogertyのものだ。

 John Fogertyは、1960年代後半から1970年初頭にかけて人気のあったロックバンドCreedence Clearwater Revival*1のシンガーソングライターでリードギターでリードヴォーカリスト。実兄のTom FogertyもCreedence Clearwater Revivalに参加していた。CCRの名で知られるロックバンドが最も制作意欲のあった成功期とされる1969年から1971年の期間にトップ10のヒット曲が14曲もある*2

 2つのギターにベースとドラムスという4人編成は、ロックバンドの最低限の編成であり、まさに基本形だった。またその音楽性は、南部のにおいがして、サザンロックやスワンプロックの原型となったが、彼らはカリフォルニア州のサンフランシスコ周辺のベイエリア出身だった。前にも紹介したように、"Fortunate Son"は、草の根の人びと、庶民、労働者階級の人びとの気持ちを歌ったものだった。

amamu.hatenablog.com

 CCRの活躍を10代の頃リアルタイムで聞いたけれど、解散後のことは知るはずもなく全く知らなかった。

 今回はじめて、John Fogertyと実兄Tom Fogertyとの確執やレコード会社Fantasyとの確執をYouTubeで知った。

 自らがつくった'The Old Man Down the Road' (1985)が、同じく自らがつくった 'Run Through the Jungle'(1979)の盗作だと訴えられたという。これは昔の曲をレコード会社に譲渡したことから訴えられたバカげた訴訟だった。

 以下は、 the Guardian の2000年の記事。

www.theguardian.com

 すぐれたアーティストを食い物にするマネージャーや同じくレコード会社の話はよくある話だが、CCRも同様だった。権利をめぐるバンド内のメンバー争いもよくある話ではあるけれど、CCRの場合、兄弟を巻き込んだところが悲劇的だ。

 ようやく長い法廷闘争を経て、自分の楽曲を取り戻し、ジョン・フォガティは今も公演をしている。

 そんな経緯を知って購入したのだが、"The Long Road Home"(2005)はいい。

 今回初めて知ったのは、Centerfieldが野球の唄ということだ。バットギターで演奏するJohn Fogerty も初めて見た*3

www.bing.com

Put me in coach, I'm ready to play today
Look at me, I can be centerfield

(拙訳)

つかってよ、監督 準備万端だよ、今日も

見てよ俺を センター、できるよ

 アルバム「センターフィールド」には、故ソウル・ゼインツ(Saul Zaentz)に訴えられた2曲'The Old Man Down the Road''Mr.Greed'も収録。

*1:CCRの前身バンドについては、次が詳しい。無理やり付けられたバンド名とその経歴:クリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァルの前身バンド「ゴリウォッグス」。

*2:この記述「1969年から1971年の期間にトップ10のヒット曲が14曲もある」はWikiを訳したものだが、次の記事もある。クリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァルの20曲:3年で18曲がチャート入りした脅威のバンド。

*3:"Centerfield"は、Bruce SpringsteenJerry Garciaと共演していたことも初めて知った。