2004-12-01から1ヶ月間の記事一覧

しばらくお休み致します

諸般の事情から、更新を続けてきたブログを少しお休み致します。

必要にして充分な祝宴

教会を出ると、外は晴れ渡っていた。 写真撮影や参列者の楽しい会話は途切れることがない。 祝宴は午後2時からで、もちろん昨日設営したテントでおこなわれる。 その2時までだが、まだ少し時間がある。マーガレットとジェフ、そしてニールの車に再度同乗し、…

教会での結婚式

教会に到着すると、公証人が式の遅れについてユーモアをまじえて説明している。12時から式が始まる予定が急遽会場が変更になったものだから、結局、式は12時30分からの開始となった。 花婿が、教会の前面で花嫁を待ち構えている。花婿には、着飾った男女がそ…

いよいよ結婚式

これはすでに昨日のことなのだが、初めてキーウィーの結婚式に参加させてもらう機会をえた。 まず結婚式に参加するときの服装だが、念のためにスーツも日本から持参してきたのだが、私がニュージーランドに滞在中、着る機会はおそらく一回もないだろうと確信…

明日の結婚式に招待される

今日は、結婚式前日だから、相手方の親族もハミルトン入りしている。 親族紹介もかねて、トムの親戚はもちろん、ナタリーの新郎の親戚も、トムの家に来て、今夜はバーベキューパーティをやることになっている。 ハミルトンにあるトムの家も、自宅のベランダ…

会場準備としてテントを設営する

トムと、トムの長男のアート、そしてアレックスとトムの父親とで、ラグランの海岸近くのその公園に行くと、ハイキングが楽しめるような素敵な公園だった。そこに、簡易トイレを設置し、みんなでテントを設営することになった。ビーチの結婚式というから、砂…

ニュージーランドは、どこの家にも男の城であるガレージがある

牽引車をつけていると、法定速度100キロのところを80キロの制限速度で走らないといけないようで、後続車が来る度にアレックスは路肩に寄って、後続車に追い抜かせている。 ラグランは、ハミルトンの西48キロのところにある小さな町だが、サーファーにとって…

結婚式の準備

来年2月の予定だったアレックスの孫娘ナタリーの結婚式がいよいよ明日に迫った昨日は、結婚式の準備ということで、私もつき合った。 こちらで中古車を買うときに世話になったナタリーの父親のトムから、結婚式が繰り上がって12月になったという話は聞いてい…

キングカントリーとは何か

以下の記述は、ロンリープラネットガイドブックに負っている*1。 キングカントリー(The King Country)とは、1850年代から1860年代初頭にかけて取り組まれたマオリ王運動から生まれた地域の呼称である。1863年から1864年にかけて起こったワイカト戦争後、タフ…

マオリにとっての土地とワイカト土地戦争のもつ意味

一方のマオリにとって、ワイカト戦争とはどういう意味をもつものなのか。Judith Bassett, Keith Sinclair, Marcia StensonのThe Story of New Zealandには、次のような記述がある。 「マオリはこの土地没収をけっして忘れることはない。それは、ワイタンギ条…

ワイカト戦争を振り返ってみる

今回、フィールドワークを多少おこない、各地の歴史的記述がされている看板を読んで、そしていくつかの書籍を読んでみて感じたことは、まずワイカト土地戦争が明確に侵略(invasion)と明記されていることである*1。 フィールドワークの際にも、さまざまなキー…

ワイカト戦争の最後がタウランガで起こる

マイケル=キングの本によれば、ワイカト土地戦争の最後の戦闘は、ベイオブプレンティのタウランガ(Tauranga)近くで生じたという*1。 1864年4月28日、キャメロンは、1700人の軍隊と17門の大砲で、230人のマオリによって防衛されていたガテ村(Gate Pa)を襲っ…

オラカウの闘い

ワイカトへの最終段階での大きな軍事作戦は、1864年の3月31日から4月2日にかけておこなわれたオラカウの闘いであった。 レウィ=マニアポト(Rewi Maniapoto)の例のコトバ、最後の最後まで戦うというコトバが残された戦場である。負傷したマオリも、最後は、…

非戦闘地域・ランギアオヒアへの日曜日の襲撃

聖ポールのアングリカン教会のあるランギアオヒアが襲撃されたのは、日曜日のことだった。 これは私事になるが、20数年前に雑誌タイムで、イギリスで日曜日に商売をする店が出現したという記事を眼にしたことがあるが、キリスト教徒にとっての日曜日は、それ…

こうして、ワイカトへの侵略が1863年7月12日に始まった

これ以降のことは、マオリ土地戦争のフィールドワークとして、あちこちに書いたので重複は避けるが、マイケル=キングの本をもとにして、もう一度簡単におさらいしておこう。 キャメロン将軍率いる軍が、マンガタフィリ川を越え、最初の戦闘は、7月17日、コ…

タラナキ戦争からワイカト戦争へ

ロンリープラネットガイドブックから、再び、マイケル=キングの本に戻る。 マイケル=キングの本によれば、タラナキ戦争の結末については、次のようにある。 タラナキ戦争にそなえて、ゴア=ブラウン総督(Governor Gore Browne)は、オーストラリアから3000…

旅行ガイドブックで、タラナキ戦争を学ぶ

タラナキ戦争については旅行ガイドブックのロンリープラネットに詳しく、これから書く段落の部分だけをロンリープラネットから補足する。 そもそもタラナキ地域は古くからマオリが住んでいた地域である。 ヨーロッパからの植民は1841年から始まったのだが、…

マオリ王運動

このマオリ王運動として、1856年に、テ フェロフェロ(Te Wherowheero)が初代マオリ王として選ばれる。彼はポタタウとして(Potatau)、1858年にナルワヒアで正式に就任する。多くのヨーロッパ系移民からすれば、これは不忠に他ならない。マオリ王運動の影の立…

マイケル=キングの「ニュージーランドの歴史」を読んで、ワイカト土地戦争を復習する

イギリス国家(the British Crown)に対抗するために、つまり、いかにマオリが集結するかという戦略を練るために、1850年代に北島に住むマオリが連続して集まりを開き、これがマオリ王運動へと発展する。 あまりにも有名なこのマオリ王運動の事情については、…

ダニーデンとクライストチャーチ

イギリスの法律が急激に影響力を持ち始めたのは、南島である。 南島の大部分の土地は、ンガイ タフ(Ngai Tahu)が所有していたのだが、1830年代のンガティ トア(Ngati Toa)の侵略でかなりの打撃を受けていた。 そして、ンガイ タフは、1844年から1857年にかけ…

「図解オックスフォードニュージーランドの歴史」から学ぶ−その2−

キース=シンクレア(Keith Sinclair)編の「図解オックスフォードニュージーランドの歴史」(The Oxford Illustrated History of New Zealand)を参考にして、昨日の続きを書く*1。 土地を売ったマオリの動機は、パケハ(Pākehā)を隣人にしたかったという理由が…

いよいよクリスマスシーズンが近づく

12月に入って、いよいよクリスマスシーズンらしく、学校も先週から旅行シーズンに入り、今週から実際の休みのようだ。 日本のショーウィンドウの飾りつけのような白いペーパーを使って、ジュディもガラスに聖マリアや三人の賢者、動物などの飾りつけを始めた…

「図解オックスフォードニュージーランドの歴史」から学ぶ−その1−

キース=シンクレア(Keith Sinclair)編の「図解オックスフォードニュージーランドの歴史」(The Oxford Illustrated History of New Zealand)という本を、アレックスの長女マーガレットの旦那のジェフから借りているのだが、これはなかなかいい本だ。 キース…

インターネットに対しても批判的でないとね

1チャンネルのブレックファーストという朝の番組で、日本のこと、インターネットを通じた集団自殺のことを報じていた。 生まれてこの方ゲームやインターネット全盛の時代だけを生きている新世代をインターネットネイティブ(internet native)、インターネッ…

夏だというのに涼しい

ジュディに言わせると、近年のニュージーランドの気候はおかしいようで、12月になっても夏にならないという。 最近の18度くらいだから、秋や春の気候という感じがする。昨日などスープが嬉しいような陽気だった。

キヒキヒ

Site 22-Kihikihi 1864年2月24日、ランギアオヒア陥落の二日後、イギリス軍はキヒキヒ(Kihikihi)を占拠し、略奪をはかり、マオリの指導者であるレウィ=マニアポトの家を焼き払った。 マオリは家を捨て、馬や家畜を、プニウ(Puniu)川の南に避難させていると…

オラカウの闘い

Site 21-Orakau キャメロン将軍の野望は、1864年2月、ランギアオヒアを陥落させたことで満足した。 しかし、マオリの指導者・レウィ=マニアポト(Rewi Maniapoto)は、水や食料も十分にない中、300人以下の人数で、オラカウ(Orakau)に村(pa)*1を建て始めた。 …

ハイリニ

Site 20-Hairini ランギアオヒアの闘いの翌日の2月22日、パテランギ(Paterangi)から、マオリが大挙押し寄せ、ランギアオヒアを奪還した。 ランギアオヒアの1キロ西のハイリニ(Hairini)尾根にマオリが塹壕を掘っているとの情報を入手したキャメロンは、その防…

ランギアオヒアの聖ポールの教会を訪れる

次に訪ねるべきは、ランギアオヒアである。 テ アワムツのインフォメーションセンターで、ランギアオヒアへの行きかたを訪ねる。 ランギアオヒアには、テ アワムツからケンブリッジ方面に4.5キロほど向かい、マンディーノ道路(Mandeno Rd)で右折し、どん突き…

テ アワムツ博物館

Site 18-Te Awamutu Museum テ アワムツ博物館を訪れるのは、これで三度目だが、ワイカト土地戦争関連の資料では現在ニュージーランドで一番そろっている博物館である。オンラインのサイトは以下の通り。 http://www.tamuseum.org.nz/teawamutu.htm この博物…