以下の記述は、ロンリープラネットガイドブックに負っている*1。
キングカントリー(The King Country)とは、1850年代から1860年代初頭にかけて取り組まれたマオリ王運動から生まれた地域の呼称である。1863年から1864年にかけて起こったワイカト戦争後、タフィアオ(Tawhiao)王とマオリたちは、ワイカトの地を後にして、南に下らざるをえなかった。そこはヨーロッパ系移民の侵食(encroachment)がまだ進んでいない地域だった。
伝えられるところによれば、タフィアオ王は彼の白いトップ帽子(top hat)を象徴として、ニュージーランドの地図の上に置き、その帽子が被っている地域は、彼のマナ(mana)、すなわち彼の権威下にあると宣言したという。
この地域には、オトロハンガ(Otorohanga)、ワイトモ(Waitomo)、タウマルヌイ(Taumarunui)、西は海岸まで、東はタウポ湖(Lake Taupo)までが含まれていた。
このキングカントリーは、何十年もの間、タフィアオ王と他のマオリのチーフの拠点であった。ニュージーランドの他のいかなる地域よりも長く、キングカントリーはヨーロッパ人に抵抗する拠点であり続けたのである。
この地は、マオリの法律によって、1880年代に至るまで、ヨーロッパ人を寄せつけなかった。マオリチーフたちの同意がなければ、キングカントリーを通過することもままならなかったし、1891年にオークランド−ウエリントン間の鉄道が初めてキングカントリーに入るまで、ヨーロッパ人はキングカントリーを簡単には通過できなかったのである。
キングカントリー内に位置するオトロハンガ*2への移民たちは1890年のことで、彼らの多くは製材業に従事した*3。
キングカントリーは今日なお、マオリの影響が強い地域であることは間違いないが、1908年のオークランド−ウエリントン間の継続的な鉄道利用によって、キングカントリーの、いわば独立性と他の地域からの隔絶は終わりを告げることになったのである。
1884年にパケハがこの地に入ることが許されて以来、1955年に至るまで、キングカントリーはドライ(dry)だった。つまりアルコールはご法度だったのであるが、鉄道敷設が許された際にも、アルコール厳禁というこの基本姿勢はマオリによって継続されることとなったのである。*4
*1:ロンリープラネットは、単なる旅行ガイドブックだが、歴史的な記述が多いこと、またその調査が徹底していること、その記述が体系的であることなど、日本のガイドブックが学ぶべきものが少なくない。これは私の印象に過ぎないけれど、ロンリープラネットガイドブックと日本のガイドブックを比較してみると、大人と子どもほどの違いがある。
*2:オトロハンガは、ハミルトンからワイトモ洞窟に行く途中にある。
*3:ニュージーランドはクリーン、グリーンのイメージが強く、実際自然豊かな国だけれど、木材の伐採はかなり進んでいた。今ある多くの木は、植林によるものである。
*4:これも、ロンリープラネットの最後の記述にあるのだけれど、現在は、ホテルが至るところにあり、どこでもアルコールが飲める。一言だけ解説すると、ホテルとは、宿泊施設を意味することはもちろんであるが、英語の含意では、hotelには酒が飲めるところという意味が含まれていることは、覚えていていいことだ。